常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

2.鷲子山上神社探検記

常陸国ふしぎ探検隊はさる2015年4月19日、茨城県常陸大宮市鷲子(とりのこ)にある鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)を探検してきました。

実は前回のブログには書いていませんでしたが、九州王朝の残影を常陸国で確認し発表することが大きな目的でもあるのです。

九州王朝とは(Wikipediaにより引用)
「九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、大宰府だざいふ)がその首都であったとする説である。」

その経緯は、ネットで先祖探をしていて、たまたま見つけた百嶋由一郎さんという在野の歴史家の講演会書き起こしを読んでいたら、地元の72年に1度のお祭りで有名な茨城県常陸太田市(旧金砂郷町)の西(東)金砂神社のことや、同常陸大宮市(旧美和村)の鷲子神社のことが載っていたのです。

俄然興味が読み続けけていくうちに、日本書紀古事記は真実を改ざんしていること

がわかってきたのでした。

もっと百嶋さん資料はないのかと調べていたら、ありました、ありました(=⌒▽⌒=)

久留米地名研究会の古川さんが希望者には実費で百嶋先生の資料をお送りしますと言う事でした。

早速電話をして送っていただくことにしました。

数日後、百嶋さんの講演会や研究者との会話の録音CD約10枚と60年以上研究し、解明した古代九州王朝の系図(百嶋系図)のコピーが届きました。

仕事柄車で移動することが多い毎日なので、クリスハートから百嶋CDに入れ替えて、毎日、毎日、何度も、何度も聴いています。

移動中の聴取はメモが取れなく、聴き返しが出来なくて多少不便ですが、その内容は「アッと驚く為五郎」(古!)で目からうろこどころではありません。

詳しくはここでは書けませんので、内容を詳しく知りたい方は古川さんから譲っていただいて下さいね。

まず神社に行って確認しようと言うことで、近くの(車で10分)鷲子山上神社探検に行ったわけそれでは探検記スタートです。

(一般的な鷲子山上神社の情報ははいろんな方がブログに書いているのでそちらで詳しく見て下さい例えば玄松子 さんのHP)

旧美和村に住む私には鷲子山上神社はなじみのある神社です。

地元ではとりのこさんと呼んでいます。(ほんとの地元では、とんにょこさんと呼んでますが。笑)

昔は3年に一度お祭りがありました。

山車が鷲子地区内の小地区に各々あり、結構盛大なお祭りです。

お祭りは茨城県側の鷲子地域(本当は鷲子部落と書きたいのですが、部落と書くと被差別の部落と勘違いされそうなので地域と書きます。茨城県北部では一般的に地域の事を部落とよんでいます。)だけでおこなわれているようです。

昔は茨城県と栃木県にまたがって立っている神社として有名でしたが、最近ではフクロウの神社として特に栃木県側で名を売っています。(わたしが子供のころはフクロウのフの字もありませんでしたがね。笑。)

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     本宮前にある日本一のフクロウの像


両県にまたがっているため、社務所も二つあります。

茨城県側は専任の宮司さんがいないので(昔はいたのかはわかりませんが)お祭りのような大きな行事の時は、旧美和村内の神社の宮司が出向くようです。

栃木県側は山上にも関わらず、境内に宮司の居宅があり常駐しています。長倉と表札にありました。佐竹氏の末裔ですね。旧村内の高部にある諏訪神社(おすわさん)の宮司も高部さんと言って佐竹氏 の子孫の方です。

つまり、ふくろうの神社になったのはここ20年から30年の事で、何でも、社務所の近くにある大鳥居の所から山頂にある拝殿までの石段の段数が96段で往復すると2×96でフ・ク・ロ・ウと言うごろ合わせらしいです。(境内のどこかに書いてありました)でも、2×96で2倍苦労するなんてひねくれた見方もできますからね。ご注意を!

宝くじにご利益があるらしいですが現世ご利益ばかりお祈りするとよいことはない罠。(飯山一郎か?)

ま、こういうことから神社の由緒がごじゃっぺ(茨城弁でいい加減なこと)になってくるのでしょうね(笑)

本来はカラスのはずなんですけど、フクロウも鳥だし福郎とか不苦労とか当て字が縁起がいいのでどうでもいいですが。(にが笑)

さて、本題に戻りましょう。

送っていただいた百嶋由一郎先生(経緯を表して、早速先生です)(笑)のCDや、百嶋系図(ここでは発表できないので久留米地名研究会の古川さんから入手して下さいね)から学んだことは、神社に行ってまず見るポイントは、千木と神紋です。

千木とは本殿の屋根両端についている斜めの板です。男千木と女千木があります。

Wikipediaより引用)

神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。

                   

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男千木(祭神が男)

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女千木(祭神が女神)

 

それでは、鷲子山神社はというと、本宮(最初にお宮が置かれた場所に再建されたもの)は男千木ですね。

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本宮の千木

 

では、新しい場所に遷宮された本殿はどうでしょうか?

 

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 本殿の千木

 

こ、これはっ!女千木ですね!

探検隊初出動から、なんという事でしょう?(ビフォー・アフターかよ?)

本宮と本殿の千木が違う?なんでだろう、なんでだろう、なんでだ、なんでだろう)?(また、古いね)

鷲子神社の祭神は

天日鷲命

配祀として

大己貴命少彦名命

となっており、女神は祀られていないことになっています。


ここで立ち止まって考えてみよう。

百嶋CDや系図で学んだことを思い出して考えるんだ!隊長!

それは・・・

1、記紀は信用できない事の方が圧倒的に多い。

2.ご祭神を都合良く変えてしまう場合がある。

3.その理由は支配者内部の権力争いtと出自のごまかし。

う~ん、これだけではわからない。頭が限界に達した。目もショボショボ。

ということで、続きはまた今度。