常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

4.静神社探険記

 

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実は、前回探検した「鷲子山上神社」もこの「静神社」も「旧那珂郡(さらに昔の平安時代延喜式では久慈郡式内社ですが)なのです。


那珂や那賀は、福岡や徳島、和歌山にも見られる地名です。九州王朝説から考えれば、東遷の行程が残されていると見るのが妥当でしょうね。(2020年現在では逆に東日本から西に地名移動したと考えていますが)鉱物を探しに全国津々浦々調査をしながら、その勢力範囲を広げ、移住していったのでしょう。


百嶋CDを聞いていると、「那珂川町」という地名が出てきて、この場合は「福岡県那珂川町」なのですが、「鷲子山上神社」は「旧茨城県那珂郡美和村旧(嶐郷村)鷲子」と栃木県那須郡那珂川町馬頭町)矢又」にまたがって鎮座しているのです。 矢又ですよ。ヤマタノオロチを連想させますね。(福岡県那珂川町は現在那珂川市になっており

九州大学工学部の教授真鍋大覚の終身地である。また真鍋の先祖は慶長年間に常陸国府中から九州に移動されている。当時の府中での同僚には漫画家の巨匠手塚治虫の先祖がいる)


 この馬頭町は栃木県(旧下野国)にも関わらず、徳川時代には水戸領に属していました。したがって鷲子山上神社は江戸時代は水戸徳川家のみの所領だったわけです。那珂川町旧(馬頭町)健部には、建部山神社(祭神は日本武尊と金山彦)が有り、日本最古の産金の里で遣唐使の資金に使われたとの石碑が立っています。「建部山神社」についての詳細は後日。


さて、「静神社」ですが、


主祭神は 「建葉槌命


相殿神は「手力男神」「高皇産霊尊」「思兼神」


神紋は丸に桜。

 

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主祭神の「建葉槌命」ですが、百嶋系図には記載がありません。CDにも今まで聞いた中には出てきていません。


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Wikipediaによれば、『古語拾遺 』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。


書記では、経津主神武甕槌命 では服従しなかった星神香香背男 (ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。
2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、日本書紀第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。


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さあ、香香背男がでてきましたね。まだ探検には行っていませんが、大甕倭文人神社の伝承によれば、岩に変身した香香背男を建葉槌命が銀の靴で蹴飛ばし、塵散りにしたとの事です。

 なんかこのあたりに、本当の主祭神を解き明かす鍵がありそうです。

 建葉槌命男神なのですが、ここも鷲子山上神社の本殿ように女千木でした。

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つまり、本当の主祭神(女神)を隠しているということです。

 織物の神が男というのは小学生が考えてもおかしな話です。境内に下のような「織姫像」が設置されているのをみたら尚更です。素直に考えれば、この「織姫」が主祭神だと思う事でしょう。

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 織姫といえば七夕です。七夕姫といえば、百嶋系図では「市杵島姫」ですね。

スサノウとアカル姫(大幡主とイザナミとの娘、豊玉彦の姉)の娘です。

 織物の神と言えばもう一人、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)がいますね。

相殿神高皇産霊神(高木神)の娘です。そして書記では、もう一人の相殿神思兼神の妹になっています。

百嶋系図では、思兼神は豊玉彦です。

 初期九州王朝の立役者は白族で倭の奴国王系統で白川伯王の子大幡主(神皇産霊神)であり、孫の豊玉彦ですから、どうも記紀を創作した張本人は、高皇産霊神系統を高く見せようとする傾向がありますね。と言うか、豊玉彦を低く見せようとする意図がありありですね。

 百嶋CDには豊玉彦は当時、多種多様な民族をまとめ上げるのに大変苦労した旨の事を述べておられます。

 土着民、5000年前に入ってきている古古ヘブライ人(神農系、恵比須系)、アレクサンダー大王の東方遠征で追われた2300年前のイスラエルユダヤ系、ペルシャ系アーリア系、匈奴系、いく度もの内乱で追われた中国系、韓半島系、東南アジア系、つまり、初期九州王朝はユーラシア大陸の多くの民族の吹き溜まりとなっていたわけです。

(要するに日本人と呼ばれるものの先祖は単一民族ではいと言うことです。世界中の国と同じ先祖を持つわけですね)

 これらをまとめるために強圧的ではなく融和政策を採っていたようです。

この穏やかなやり方が後に記紀を創作した者にとってはなじめないものがあったのでしょう。もうお分かりですね、記紀を創作した者とは、本来の天皇の系統をごまかし、自分の先祖をねつ造した藤原氏に他なりません。記紀によって、天皇ではない自分の先祖を天皇にしてしまったのです。大化の改新乙巳の変)で蘇我氏を滅ぼし、平成の現在

に至るまで日本の中枢に居座る藤原氏です。

 豊玉彦の政治手法は聖徳太子の「十七条の憲法」を想起させます。

 特に、一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせ

 よ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 

聖徳太子蘇我一族であり豊の一族でもあります。書紀では厩戸豊聡耳皇子で豊玉彦八意思兼命と意味が同じですし「豊」も使っています。父用明天皇は橘豊日天皇でありやはり「豊」を使っています。つまり、豊玉彦と何らかの深い関係にあるのではないかと予想しています。


九州王朝時の藤原氏の先祖である海幸彦(草部吉見・天児屋根命・建雷・その他多くの名を持つ)の身分は尉官クラスだったと百嶋先生は述べています。

九州王朝主な5系統の一つ高皇産霊神(高木大神)の娘栲幡千千姫命の婿養子になっ

てから、成り上がって行ったようです。これを隠ぺいし権力を手に入れることが、藤原鎌足不比等の大命題だったのです。

 

現在は、五摂家(近衛(このえ)家,鷹司(たかつかさ)家,九条家二条家一条家)と言う形で日本の中枢を牛耳っています。

 (煩悩くん フルスロットル

 

あ、そうそう。祭神は誰かと言う事でしたね。

次の奉納された蛇の絵も参考になるかもしれません。

ポイントは、カガセオと蛇。そして女神。

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そしてもう一つ、本殿と相殿の配置。

 

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見づらいですが、拝殿の奥に隠れている本殿(千木のついている建物)の両脇に、あたかも本殿に祀られている人に従うように並んで小ぶりな相殿が立っているのです。

これは、本殿の女神の二人の従者を表していると解釈できます。

これらを踏まえて、少し考察したいと思います。