5.静神社探検記2
その後、考えをまとめるためにいろいろと調べていましたが、とりあえずわかったことは、常陸国の神社はお互いに関係しあっていて、単独の神社を調べても、深い理解に到達できないという事でした。
これまでのたった二つ(鷲子山上神社と静神社)だけでも、阿波国忌部家系によれば、建葉槌命は天日鷲命の子供と言うことになっています(百嶋系図ではそんなことは全く読み取れない(忌部氏の創作か?)し、まつろわぬ神の代名詞、カガセオ一つとっても、大甕倭文神社、泉神社、鹿島神宮、香取神宮、澳津説神社、息栖神社、大生神社、大井神社などと、思い浮かべただけでも、これだけの神社が関係していることがわかります。
百嶋系図やCDを聞いている皆さんならこの神社名を目にしただけで、ピンとくるものがあるでしょう。長脛彦(岐神)、多氏、海幸彦、山幸彦。すぐにこんな名前が思い浮かぶと思います。
したがって、とりあえず単体の神社を調査して、分かったことや、その時々において思いついた関連性などを報告することとします。
もちろん常陸国の神社が全て関連しているわけでもないでしょうから、今後たくさんの神社を探検していくうちに、系統だてて整理できると思いますので、気長にお付き合いいただければと思います。
では、前回の続きに入ります。
ご由緒では、現在の主祭神は建葉槌命、江戸時代には黄門様によって手力男命が主祭神になっ ていたようです。(相殿神は、左殿に高皇産靈命、右殿に思兼命を祀っていたといいます。
神紋は桜でしたね。そして千木は女千木。
相殿神からアプローチしていきましょう。まず、百嶋系図によれば左殿の高皇産靈命は高木大神ですね。右殿の思兼命は豊玉彦です。建葉槌命は今のところ百嶋系図やCDからは何もわかりません。江戸時代に黄門様によって主祭神とされた手力男命は、昨日聞いていたCDでわかりました。長野戸隠神社の解説で豊玉彦と言っておられました。(その後手力男命はスサノヲということがわかりましたので、訂正いたします。)
つまり、黄門様は思兼命と手力男命、豊玉彦とスサノヲをお祀りしていたのでした。
黄門様の大日本史はまだ読んでいませんが、ちょっと調べたところでは、記紀の記
述を踏襲しているようですので、ねつ造された歴史を鵜呑みにしている感が否めま
せん。唯一宗源吉田神道を信奉していたようです。本地垂迹を否定しているのと佐
竹氏(源氏)の守り神であるため、常陸国内の多くの八幡神社は吉田神社に改名さ
せられています。徳川家は源氏ではなかったことの証左でしょうね。そうだとした
ら、征夷大将軍に成れる資格はなくなります。だから、別な方向から徳川家が征夷
大将軍に任命された正当性を主張するために大日本史を編纂したのかもしれませ
ん。地元の吉田八幡神社も改名させられた一つです。
三浦杉
吉田八幡神社の長い石段から続く境内は杉の大木におおわれ、その石段の両側にも杉が林立する。
中でも特に目につく二本の杉の巨木があり、これが県指定の天然記念物の三浦杉である。
樹齢は800年以上、幹周囲10メートル、樹高59メートル、枝下28メートルというこの杉は、久寿2年(1155年)相模国・三浦大介義明が、下野国・那須野に金毛九尾の悪狐退治に行く途中、この神社に参拝し、「我宴護により能く悪狐を護ば此の杉天にそびゆべし」と植えた杉と伝えられる。
はじめは鎌倉杉といわれたが、この話を聞いた徳川光圀が、「三浦」と命名した。
九尾のキツネと言えば、地獄先生ぬーべーにも出てくる玉藻の君ですね。那須岳では三浦大介(横浜大洋ホエールズの浜の番長ではありません、笑)に退治され殺生石になっています。そしてこの神社の現在の神主は元民主党衆議院議員の高野某です。
曾祖父さんは桜田門外の変に参加し明治まで生き延びた海後 磋磯之介の兄です。那珂市米崎の三嶋神社が生家です。(出ました。河野家の氏神様!大山積)那珂市には意外と三嶋神社が多い。
領内の多くの神社では神紋が水戸葵紋に変更させられているし祭神も変更させられ
ています。(東海村の豊受皇大神宮や大子町の近津神社上の宮、日立市の泉神社、
大甕倭文神社、澳津説神社、御岩神社など多数)
さて、本題です。ポイントはカガセオと蛇、そして女神であること、神社の配置と言う事でした。
現時点での結論は、ズバリ言いましょうね。それは、木花咲耶姫(前玉姫)です。
豊玉姫の線も考えているのですが現段階ではと言うことで、ご了承くださいませ。
理由は、桜の神紋と岩に化身したカガセオを銀の靴で蹴飛ばし散じりにしたこと。つまり岩を粉砕したからです。削岩機の裂(前)玉姫の本領発揮ですか。(笑)
といって、前玉姫が蹴飛ばしたわけではなく、実際にはやさしく、きびしく懐柔
したのだと思います。
想像(妄想かも)を膨らませれば、鹿島の神(海幸彦、藤原の先祖)でも香取の神でも征伐できなかったカガセオを、なぜ機織の神である武葉槌が征圧できたのか。
それはカガセオ(長髄彦)は九州時代から埼玉姫(豊玉姫かも)に憧れていたからでしょう。(笑)
最後はもう、身分の高い美人の女神様にご登場願うしか策はありませんね(笑)
後の時代の権力者、回りくどく書かなくてもいいですね。藤原氏が、カガセオ(岐神=長髄彦一派)を悪人として貶めるために(神武と喧嘩した事実はありますが)、こんな物語を作った可能性
は高いと推測します。
本殿両脇の相殿はまだよくわかりません。蛇から大己貴神を導き出せますが、もう片方は今のところ見当が付きません。漠然と岐神かなとはおもっていますが・・・。
今後ほかの神社(特に大甕倭文神社と泉神社)を探検してからさらに考察していきたいと思います。
おまけ
現在考えている当時のシナリオは、こんな感じです。
神武と喧嘩して、常陸国に島流しになってしまった(あるいは蝦夷地から東国の防衛隊として左遷された)長髄彦は、下総の国から常陸の国に入国し常陸国をうまく管理していた。5000年程前から蝦夷地に渡来していた旧ヘブライ人の恵比須族たち(青森から岩手にかけての一戸から九戸を中心に居住、いまではキリストの墓がある事でも有名な地区)とも、今の福島県いわき市の勿来(なこそ、くるなかれ、くなと)を界にうまくすみ分けていた。ところが、常陸国から隣の下野国は金の産地。(八溝山系、茨城県大子町、栃木県那珂川町)増々力を付ける長髄彦を快く思わない海幸彦系(藤原の先祖)はついに討伐隊を結成。鹿島の神と香取の神を征東将軍として派遣した。しかし、カガセオ(長髄彦)の圧倒的な戦力により征伐をあきらめた海幸彦系は、九州王朝一の実力者豊玉彦に対策を願い出た。豊玉彦は得意の穏便な手法、要するに女神を提供することで仲良くするやり方、義兄弟になる方法(百嶋先生は穴兄弟と言っておられましたが)をとり、自分より18歳も若く、美しく(と思われる)、若すぎて持て余していた前玉姫を常陸国に遣わした。
(時代考証してません)
2020年現在では、なんと前玉姫と長髄彦を双子の兄弟と分析しています。