常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

7.近津三社探検記(茨城県大子町)

今度の探検は自宅から程近い(一山越えたところ(笑))県北大子町の近津神社、八溝峯神社で


す。


タバッコ峠を越えて栃原からアップルラインで大子に行きます。


タバッコ峠はいつからそう呼ばれたのかはわかりませんが、弘法大師空海)が峠を越えるときにタ


バコを吸ったからという言い伝えがあります。一般的にタバコは鉄砲伝来と一緒と言われていま


すから、空海がタバコを吸ったはずはありません。つまり、この伝承はごじゃっぺ(でたらめ)ということ

 

になりますね(笑)


ちょっと疑問を持ってインターネットで調べると、本当のことが瞬時にわかります。インターネットは、アカ


シックレコードだと誰かが言ってました。問題は「疑問を持てるか」と「どの答えが本当か」を見極める


目を持つことです。神社探検にもこれは言えます。百嶋先生のCDを聞いたり、系図を見たりしていたら、


何に疑問を持ったら良いのか?どの答えが本当らしいのかがおぼろげながらわかってきたような気がし

 


ます。気がしますですから、まだまだですけど(笑)


神社をたくさん参拝してHPを書いている人がいますが、疑問は持たないのでしょうかね(笑)


基本的、記紀は史実ではないと考えているくせに、神社の由緒書は事実だと思っているのでしょうか。


それとも、いつも言うように現世ご利益を期待しているのでしょうか(笑い)


神社は神様と呼ばれているモノを祀ったものではありません。基本的には日本の創世期に活躍した実在


の人間を祀ったところです。記念碑です。要するにお墓のようなものです。お墓に行ってご先祖様お守りく


ださいと祈ったところでこの世で実際に何かをするのは自分自身です。気休めにはなるかもしれませんが


(笑)霊になった人がこの世の人間に何か働きかけたら、それは普通成仏していないと言う事ですからね


(笑)これこそ低層4次元(幽界)にとらわれてしまった人たちです。


(神社のもうひとつの大きな役割はおいおい考察していきます。)


かといって神と呼ばれるものはいると思っているし、守護霊と呼ばれるものも存在すると思っています。


超能力も、UFOも、あの世もあると思っています(笑い)坂本政道ファンです。(笑)飯田史彦も、本山博も


愛読書です。

 

さて、近津神社はちかつじんじゃですが、千勝神社と書いてちかつじんじゃという神社もあります


ね。茨城県北および福島県南は近津神社で、茨城県南は千勝神社ですね。


大子町は山しかありません。(笑)いえいえそんなことはありません。温泉もあり、袋田の滝もあり、りん


ごの産地で茨城県では一番の観光地ですね。


また栃原金山があり、硯石もとれ鉱物資源にも恵まれていたところです。


百嶋CDでは、近津はちかつと読みますが、きんつとも読み金山彦との関係が指摘されています。


百嶋先生は勘違いして栃木県と言っておられましたが、直線距離で10km程茨城県側ですので、ご了承く


ださいませ。(-^□^-)


近津神社は久慈川の支流八溝川沿いに、下野宮、町付、上野宮の三ヶ所に祀られています。


それで通称近津三社と呼ばれています。近津三社の呼称に付いては別な見方もあり、下野宮の


近津神社と陸奥国一ノ宮、福島県棚倉町近津の八槻都都古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)と


棚倉町馬場の馬場都都古和氣神社(ばばつつこわけじんじゃ)の三社をもって近津三社という場


合があるようです。

 

 

山門

近津神社の由緒を玄松子さんのHPより引用させていただきます。


郷社 近津神社
祭神 級長津彦命  面足命  惶根命
創建は社傳に拠るに、文武天皇慶雲四年、藤原富得、夢に神あり、白羽の矢を授けて曰く、吾近勝明神なり云 云と、因て八溝山の悪鬼を除去せしむるを得たりと、此事奏上に及びしかぱ、勅して此地に社を営ましめら る、是れ本社の創建なりと云ふ、本社は、元と陸奥に属し、彼の陸奥白川郡馬場近津明神の下宮なりと、後小 松天皇應永十三年四月源兼保、地三千貫を寄奉る、但、之れ義家の例に依ると、次いで永正十一年六月、佐竹 義治更に六百五十貫の地を寄せ奉りしが、徳川氏天下の権を握るに至り、社領三十六石八斗、及除地十五石 八斗三升四合を寄奉る、明治維新一度村社に列せしが、後九年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、其他神楽所あり、本殿は神明造りにして南に面す、壮麗にあらざるも瀟洒却て神威の高き を仰がしむ、境内は千二百七十五坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林二反七畝十七歩より成る、「前 に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふ、而かも東西老檜天を蔽ふ、蓋、自然の神地たり。


-『明治神社誌料』-


ご祭神は
面足尊 (おもだるのみこと)

惶根尊 (かしこねのみこと)

級長津彦命 (しなつひこのみこと)


面足尊 は百嶋系図によればきんつと読んだ通りの金山彦ですね。玄松子さんのHPによれば惶根尊


は面足尊と対の神との事なので百嶋系図によれば埴安姫か大市姫ということになりまが、ここでは


鉱山の神岩裂と考えて埴安姫が妥当だと思います。

 

 

 


級長津彦命 は海幸彦(天忍穂耳、草部吉見、建御雷、風神様)ですね。

 

≪下野宮近津神社≫


日本武尊が創建したとの書付がありましたが、時代がごじゃっぺ(でたらめ)です。慶雲四年は文

 


天皇の時代ですから、日本武が創建できるわけがありませんね。何も知らない人は、素直に信じて


しまいますね。(写真参照)タバッコ峠と同じ部類ですね。(笑)


玄松子さんから引用した由緒によれば、創建年はおなじですが、創建者は藤原富得ということになっ


ています。この藤原富得があの藤原氏であるなら、面足尊、 惶根尊 に加えて級長津彦を祀った


理由がわかります。藤原流下剋上です。

 

ごじゃっぺな書付


また、「常陸国久慈郡七座の一 稲村神社」と刻字された石碑が立っていますが、延喜式


の成立は10世紀初頭なので、この時陸奥国だった大子町下野宮は式内社の稲村神社ではありえないで


しょう。これもごじゃっぺ(笑^2)


上の書付は宮司が書いたものではなさそうなので、まあご愛嬌なのですが、こんな石碑を堂々と立ててし


まう感覚には驚かされますね。それともお上から(徳川or明治政府)の指示だったのでしょうか?


 

 

ごじゃっぺな石碑(常陸国二八社久慈郡七社之一 稲村神社と刻字)

 

山門の社名額は「延喜式内 石都々古和気○」と読めます。石が入っているのは石川町の都々古和気神


社と同じですが、その意味は不明です。とにかく、この神社が近津三社の一つであることを

 


強烈にアピールしているようには感じます。

 

旧社名 延喜式内 石都々古和気何とか


次の伊勢大々講の石碑はすごく立派なのですが、その奥にあるお稲荷さまは質素でした。質素


というより粗末といったほうがいいでしょうか。写真のように注連縄が上下にあり、参拝者を拒んでいるの


か、お稲荷さんを封印しているのかと思ってしまいました。

 

 

伊勢大々講の石碑 摂社のお稲荷様

 

もうひとつ、感じたことがあります。百島系図を見られた人であれば気付くことだと思うのですが、


伊勢の外宮様がお稲荷様(豊受姫、大目姫、級長津姫、天細女)だと知っていれ


ば、(歴史の一般常識から見たらとんでもないことですが)この配置には合点がいくのです。


さらにもうひとつ。このお稲荷様は本殿のすぐ左奥にあるのですが、祭神の一人に級長津彦 (しなつひ

 


このみこと=海幸彦)がいることを考えれば、豊受姫と海幸彦がご夫婦だったのでまた合点がい

 


くのです。こんなことを創建した人が知っていたかどうかはともかく、百嶋先生のCDに出てくる程の神社で

 


すから知っていてこうしたのかもしれません。

 

 

源義家が鉾を立て掛けたといわれる鉾スギ

 

金精様(金山彦?) 聖徳太子の碑

 

 

田植歌 御田植祭のポスター


本殿に千木もないのに色々とにぎやかな神社でした。(笑)

 

 

 


≪町付近津神社≫

 

 

千木はおなべ千木でした(笑)

 

摂社の天満宮

 

こんな千木はこれまでお目にかかったことがありません。何かの意味はあるはずですが、今のところ


不明です。千木がある分下野宮神社より格上なのでしょうか。丸に上の紋もあるし(冗談)。 


ここも近津神社の石碑と共に稲村神社の石碑が立っていました。(よほど常陸国久慈郡式内社になり


たかったのでしょうね)

 

 


≪上野宮近津神社≫


ここは三社の中でも一番興味深かったですね。小字名も稲村になってます。(笑)おそらく水戸徳川家


寺社改革時に地名まで変えさせられた可能性が考えられます。


本殿には水戸葵紋の垂れ幕がかかっていました。水戸徳川家にとっては下野宮、町付よりも上野宮に何


かしら重点を置いていたのでしょうか。何せ明治政府が正史をまとめる時に参考にした大日本史を編


纂していたくらいですからね。



本殿神紋は水戸葵 変わった狛犬(サルだね)

 


 
侯爵徳川圀順の筆による社名額 灯籠に有った丸に上の紋

 


WIKIによると、徳川圀順(くにゆき)は水戸徳川家13代当主。貴族院議長、幼少時父篤敬がイタリア特命


全権大使に任じられたため渡欧。ローマで暮らす。圀順が20歳の時に大日本史完成。明治天


皇に献上。その後日本赤十字社社長。昭和4年にその功により侯爵から公爵へ陞爵する。


なんという事でしょう。(前にも書いたこのフレーズ、笑)


この圀順の時に大日本史が完成だなんて。


ローマで暮らした上に日本赤十字社社長。何か臭いますね。陰謀論の臭いがプンプンしま


す。


日本赤十字社は国民から一軒当たり最低500円集める団体です。寄付は任意ですが、私の住んでいる


地域では、自治会の役員の方が集めに来ます。87歳のおじいさんが何の疑問も持たず、ニコニコしな


がら、さも当然のごとく徴収に来ているのが実態です。行政の下部組織としての自治会が会費の徴収を


担っているのですね。(天下り代表格、市の社会福祉協議会の寄付金は無条件に500円徴収されてます


が(怒)(笑))


戦前は天皇家が中心の社団法人機関、現在は厚労省認可法人。何だか神社の形態と似てますね。名


誉総裁は皇后、現社長は五摂家のひとつ近衛忠煇、元総氏理大臣細川護煕の実の弟です。


各県に支部があり多くの県で支部長は県知事です。


要するに税金の代わりに半強制的な寄付金で運営する国家機関と言うことです。


詳しく知りたい方は「だ いだいこんの日常 」を参照ください。


神社は宗教法人、非課税団体です。大元締めは誰なのか。日赤も神社もお寺もたどり着くところは日本


最高格式家に繋がってしまうのです。日本の国教は正史では物部氏蘇我氏と戦って敗れ、橘の紋

 


から椿の紋に変わったときから仏教です。神道はそれ以上の存在ですね。別格なのです。


アンタッチャブルな組織なのです。戦後は国家は政教分離大義名分として神社もお寺もただの宗教法


人扱いしていますが、じつに深く深く国民の中に浸透しているのです。パワースポットだとかいって畏怖心


や、依存心を煽り参拝者から賽銭やお布施を集める集金組織に過ぎませんね。


お寺に至っては死んだ後まで49日や1回忌などで支配し続けます。全ては恐怖心です。恐怖心を植え付


けることで支配をするのです。


こんな家系が創生期に日本をまとめ上げた九州王朝の末裔だとは信じられません。

 


話しが横道にそれ過ぎました。(笑)


石灯籠の紋は村上水軍のもののようです。村上水軍は隊長の先祖河野水軍とも関係があります


ね。水軍でも海賊でもあったようですが。


千木は女千木でした。

 


千木は女千木


向かって左側の境内社には鷹の羽紋が堂々とついており、阿蘇家とのつながりを予見させま


す。おそらくこれが級長津彦では内科と思います。


隣の武澤神社については、この世のアカシックレコードのインターネットでは何も見つかりませんでし


た。祭神は範善法海命となっています。



違い鷹の羽紋のある摂社 左隣の石の祠 武澤神社

 

本殿は大変立派で、写真のように拝殿を押しつぶしそうでした。三社の中でいちばん大きく造りも立派で


した。


 

拝殿が本殿につぶされそうです。


身かって右側の摂社は二つあり、天満宮とお稲荷様でしたが、二つとも劣化を防止するように中尊寺


色堂のように建物の中に入っていました。天満宮の屋根には右割れ立ち葵の紋が、お稲荷様の屋根には


橘紋を見ることが出来ました。百嶋CDに出てくる由緒ある紋です。


菅原道真天満宮が右割れ立ち葵紋をつけているのを見たのは近隣では初めてです。


百嶋系図では豊玉彦(ヤタガラス)の子、武夷鳥(とりのこ2)が菅原家のご先祖なので、橘紋を使っても


おかしくはありません。


稲荷社の橘紋も非常に珍しいのではないかと思います。


なので、最初にアップしたときは反対に書いてしまいました。


一説によれば、近津神社はもともと下野宮にだけあったものを水戸徳川家が町付と上野宮に分祀したと


のことですが、これまで調べた感じでは、上野宮が最も古く格式の高い神社のように思います。

 



お稲荷さんの橘紋

 


天満宮の右割れ立ち葵神紋


追記:

5月25日に上野宮に行って見直してきました。朝アップしたときは、天満宮とお稲荷さんの神紋を反対に描いていたので、訂正いたします。近所のおじいさんに話を聞いてきたのですが、この二つの境内社はこの地区の家の氏神様だということです。天満宮は本多家の、お稲荷さんは益子家の氏神様です。

本多家の家紋は右割れ立ち葵でした。本多家には松浦筑前守の墓碑があり写真を見せていただきました。311地震でお墓が倒壊したときに発見したそうです。だから、先代はこんなお墓があることは知らなかっただろうと言っていました。本多のおじいさんは、今は終活をしているが、あの世に行くのではなく次の世に行くのだなどとすばらしいことをおっしゃってました。

益子家の家紋は確認していませんが、益子家はどうも栃木の益子から移住してきたと伝わっているようです。

 


足を運んだおかげで、丸に上文字の家紋の謎の解明の糸口が見えてきました。本多家墓地に隠れていた「松浦筑前守墓」の墓碑がそれです。村上水軍と行動をともにしていた氏族でした。

詳しくは後日報告いたします。