常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

7.1 八溝峯神社探検記

≪八溝嶺神社≫


八溝山の頂上に鎮座しています。

冬期の晴天時には遠く富士山が見えます。


富士山の手前左側には、鷲子山、筑波山がはっきりと眺望できます。北西には那須連山、西方には日光連山が、手が届きそうな感じで見ることができます。


見張り台に最適な場所ですね。



八溝峯神社の千木(男)

 

 

 

 


*********************

玄松子さんのHPから引用(抜粋)


一説には、第四十五代聖武天皇の頃、伝教大師湯殿山修行の時、南方の八溝山を見渡せば、奇瑞雲が現れれたので山頂に登り、山王二荒両社を建立したのが始め。

社伝によると、景行天皇四十年、日本武尊八溝山に立てこもる賊を討ち大己貴命事代主命 を祀ったのが当社の起源。


室町以降は茨城県常陸国だが、古代においては陸奥国に属しており、当社は、陸奥国式内社・八溝嶺神社に比定されている神社。

以前は広い信仰圏を持ち、
白河郷北郷八十六ヶ村と南郷五十八ヶ村(福島県)、那須郡二百六十ヶ村(栃木県)、依上・保内郷四十二ヶ村(茨城県)が氏子範囲であった。
現在は茨城県側の人々によって祭祀が行われているらしい。
旧暦四月十七日に行われる梵天まつりでは、
梵天(金紙・銀紙を張り付けた5・6メートルの飾り付けられた鉾)が奉納される

*********************

これだけの氏子範囲を持っていたと言うことは、当然ながら、近津三社の氏子範囲と重なってきます。


今の茨城県大子町、栃木県の那須町大田原市那珂川町那須烏山市、さらに福島の中通りの南側白河市周辺の広大な範囲に勢力を持っていたことがうかがえます。


鹿児島県錦江町の近津神社は、社伝に鵜戸神社は其の地幽邃にして、人々が恐れて乱りに近寄らない為、その遙拝所として当神社を建立したという。


栃木県西方町の近津神社も同様で日光の二荒山神社を勧請して祀ったようです。


これらの例から考えれば、大子町の近津神社も同じように、八溝嶺神社の遥拝所だったのではないでしょうか。


最初に書いたように近津三社が、馬場、八槻、下野宮だったなら、下野宮のご祭神だけが異なることはないでしょう。

とりあえず、近津三社とは元来は下野宮、町付、上野宮の三社であり、八溝嶺神社の遥拝所としての神社だったと現時点では結論付けておきます。

 

別な意味になると思いますが、馬場、八槻、石の都都古別神社も近津三社で良いのではないでしょうか。


(ここでは論じませんが)

 


次に大変興味深いHPを見つけたので引用させていただきます。


******************************************
丹後の地名さんのHPから引用

八溝山の鬼(茨城県久慈郡)
『鬼伝説の研究-金工史の視点から-』(若尾五雄・1981)に、

 

八溝山の鬼

 さらに北上して、茨城県には、次のような古来からの有名な黄金の産地、八溝山がある。
茨城県久慈郡八溝山 北は陸奥国白川郡に属し、西は下野国那須郡に接し、東南は皆常陸の地にして久慈郡なり、山中洞穴多し、古へ黄金を掘りし処なり。仁明天皇承和三年春乙丑詔して陸奥国白河郡の国司八溝山黄金 神を祈りて沙金を採り得て、遣唐使の資を助しと、山上又大悲閣あり、坂東順礼の一なり。日輪寺、月輪寺と云両院あり、修験住せり、いつの頃よりか光蔵院、勝蔵院と云て別当となりしと云、今山上に二院ありて、山下に一院あり、合せて三別当と云、(紀行)那須記 八溝山には竜蛇が住み人民を残害せり、須藤権守某、八溝山の奥笹ヶ岳にて平治せり、とあるように、ここは三国にまたがる山だが、古来から黄金の沢山出たところで、『延喜式』によると、八溝嶺神の祀られているところである。つまり黄金神といわれる神が祀られていて、これも山そのものが黄金を胎蔵するからこそ、黄金神として神体山になっている。ところでここには、次のような伝説がある。
大同二年(一説には弘仁一二年)弘法大師は、湯殿山から鹿島への途次、八溝山の麓にさしかかったところ、谷川に香気がただよっていた。大師は、この山上は仏陀の浄土ならんと感じた。しかし土人の言によれば高笹山の山腹に鬼神が住み、ときには鬼形、ときには蛇身、または婦人、童子と化して、ややもすれば人に害するとのことであった。この鬼神を鬼賊大猛丸という。大師は高笹山にのぼり、虚空に般若の魔字品をかくと、鬼神はたちまち退散した。大師は絶頂に立ち、その山容を見て八溝の嶺と名づけた。
また池田城の城主藤原富得は、八溝山に悪鬼と大蛇がいて住民を害するのを怒り、これを退治に出かけた。途上、大風おこり、山は鳴動し、暗雲がたちこめ、雲中より眼が鏡のように光り、口から炎を吐く大蛇があらわれた。このとき空から不思議な一童子があらわれ大蛇を退治した。童子は風神の化身であり、そのとき大蛇を投げおろした土地を蛇穴という。
 さらに栃木県馬頭の大金童貞の「那須記」によると、八溝に鬼神がおり、近くの住民をさらってこれを食ったという。鬼神は岩佐九といって、八溝の笹岳の岩窟に住んでいた。宣旨により那須の地頭職須藤権守貞信が大将となり、郎党二百余騎、近村の勢子五百余人の大勢で退治に向った。勢子頭を蛇気地次郎といった。貞信は不思議な老翁に案内ざれ悪鬼の在所にいたり、首尾よくこれを退治した。悪鬼は数千年を経たカニの化身であった。その頭を斬り落すと光を放って飛行し、勢子頭蛇気地の家の庭木に止り大蛇と化した。貞信の建立した三王権現の神霊が大猿となり、毎夜、この大蛇と戦って、ついにこれを退治した。(茨城県大子町黒沢小学校報告)
これらの伝説のいずれにも鬼や鬼退治の話が出てくる点、そしてこれらの地が、鉱山地帯であり、黄金山という神体山であることは、今まで述べてきた鳥取、岡山、京都、岐阜、栃木の各府県にあった鬼退治の話と同様、鬼と鉱山との深い関連を示している。これは、かの有名な大和国修験道の総本山である吉野の金峰山が、ただ仏教の比喩として金峰山の名が出たというようなものでなく、量の多寡はともかく、実際に金を生ずる山なるが故に金峰山といい、その山の神霊を金山彦命(金精神)というのも、そのためであることがわかる。
 なおこれらの伝説の中には、蛇の話が鬼と共に出ているが、蛇もまた鉱山と関係がある。八岐大蛇を筆頭に諸国に山と関連した竜蛇の退治される話があるが、やはり鬼と共に金工に関することであることは、はっきりしている。そのことは別の機会に述べることにする。

******************************************

この内容はとっても興味深いですね。まつろわぬものの征伐が伝承として残っています。


まつろわぬものはたいてい鬼や蛇として表現されています。


藤原富得のところでは風神の化身の童子が現れて悪鬼と大蛇を退治しています。風神ですから、これはもう完全に級長津彦(海幸彦、建雷槌)ですね。

すだから、祭神に付け加えたと予想できます。


那須記」でははっきりと「鬼神は岩佐九」といっています。イワサクですよ。イ・ワ・サ・ク。


結論、悪鬼といえばこの地域ではカガセオでしょう。大蛇はおそらく木花咲耶姫だと推定します。


(飛躍しすぎか、笑)


日本建命の絡みはまだ何にも考察できていませんので、考えがまとまったらアップしたいと思います。


長々と読んでいただきまして、ありがとうございました。(=⌒▽⌒=)


******************************************

まとめ(そうとう主観でまとめています。笑)

 


常陸国を管理していたナガスネヒコ系(カガセオ)が木花咲耶姫系と鉱山を開発していたが、後年、藤原氏(鹿島大神)の進出により勢力を失っていった。鹿島大神は香取との連合軍でも制定できなかったため、豊玉彦に援軍を仰いだ。静神社のまとめでは、木花咲耶姫がカガセオ(ナガスネヒコ)を懐柔したと想像したが、ここでは鉱山開発を協力して行っていることや伝承から想像し、一歩進めて、ナガスネヒコ木花咲耶姫と夫婦だったと爆弾的予想をしておこう。