8.鷲子山上神社のふしぎな石碑
鷲子山上神社探検記で報告できなかったことがありました。
この石碑の事なのです。
上の文字は鳥(とり)の四つ点が水になっています。こんな文字見たことないよ。
鳥にも似てるし、梟(ふくろう)にも似てる。この際鳥、梟、いずれにしても空を飛ぶ鳥に違いはありませんから,それほど意味は変わらないだろうということで考察していきましょう。
そうしたら石碑の文字は「鳥宦」または「梟宦」と読めます。鷲子山神社で「鳥宦」または「梟宦」ですからね。
これはヤタガラスの秘密事項か?と直感いたしました(笑)
百嶋CDや系図を見たときに「ヤタガラス」が出てきたものですから、飛鳥昭男のムーブックスを読んでいるものとしては、コンスピラシー系が何か絡んできそうで、そそられてしまいましたね。(笑)
そそって、そそられ~て♪なんて歌、昔ありましたよね。天使になった本多美奈子の歌でしたね。
《ヤタガラスとは》
wikiによれば、八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話 において神武東征の際、高皇産霊尊 によって使わされた三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。
神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている 。
また太陽の化身ともされる。
『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄 (金色のトビ )が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため 、八咫烏と金鵄がしばしば同一視 ないし混同される。
咫 (あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18cm )のことであり咫は単に「大きい」という意味である。
われわれ不思議探検隊が追求するのは、記紀の記述や既成概念ではなく隠されてきた真実ですから、つまり現実ですから、つじつまの合わない神話は参考程度にし、ネット(この世のアカシレコード=虚空蔵)からそれにみあった解説をピックアップしてみました。本題の「鳥宦」に戻りましょう。
百嶋先生の研究内容に興味があるほどの皆様ならこの文字を見て予想するのは、「鳥」と呼ばれた官吏(=ヤタガラス=豊玉彦の系統)だと思います。
まして鷲子山神社ですから予想通りの展開です。
さて、裏を取るために「鳥宦」をネット(この世のアカシックレコード=虚空蔵)でググってみるととたったの一つですがありました。
引用開始
太梁公日記
秋、郯子が来朝し、昭公はこれと宴を開いた。(叔孫)昭子が「少皞氏が鳥をつけているのはなぜか」と問うた。郯子は次のように答えた。「吾が祖先のことですから、自分が承知しております。
昔、黃帝氏は雲を印としたので長官に雲の名前をつけ、炎帝氏は火を印としたので長官に火の名前をつけ、共工氏は水を印としたので長官に水の名前をつけ、大皞氏は龍を印としたので長に龍の名前をつけました。
我高祖の少皞氏が即位すると、<鳳鳥が飛来する瑞兆がございましたので、鳥を印とすることにし長官に鳥の名前をつけました
中略
しかし(黄帝の後継ぎとなった帝)顓頊(せんぎょく)以来、(人間とは)遠いところにあるもの(龍・鳥・雲など)を印とすることが出来ず、身近なものを印とするようになりました。
長官に民事に縁のある名前をつけるようになったのは、以前のように出来なくなったからですと。仲尼(孔子の字・あざな)はこの話を聞いて、郯子に会ってこれを学んだが、やがて人にこう語った、「天子のもとで古い官制が失われると、官制の学問は都より離れた四方の小国に保存される、と聞いていたが、それはやはり真実であった」と。
郯国は古代中国の祖、黄帝の長男・少昊(しょうこう・東夷族国の領主)を始祖とし赢(えい)姓の国である。
さて、郯国はその後どうなったか。
春秋時代が終わり戦国時代に入ると、強国として台頭してきた越によって滅ぼされ、その姿を消した。
亡国の折、郯国から日本へ渡ってきた者はいたであろうか?想像の翼は自由に羽ばたかせることができるのである。
<引用終了>
これこそヤタガラスの起源ではないか?
郯子は赢(えい)姓だと言うことです。百嶋系図によれば、豊玉彦は大幡主とイザナミ(金山彦の妹)の子ですから、母系はサンズイ赢(えい)姓ですね。なぜ金山彦系がサンズイ赢(えい)氏かというと、百嶋先生は大陸で調査結果を持ってこういっておられました。ヘブライ系の金山彦の先祖は、アレクサンダーに追われ、追われ、追われ、東へ逃げて、逃げて、逃げて、中国を経由して日本に入ったが、中国、当時は秦の始皇帝の時代。
金山彦の先祖はヘブライの中でも超格式のモーゼの直系であったため、始皇帝と縁組をゆるされ赢(えい)姓を名乗れるようになった。
赢(えい)氏は航海して日本にたどり着いたので、赢(えい)にサンズイをつけた文字を使っている。
つまり豊玉彦もサンズイ赢(えい)氏を名乗っても何の不都合もなかったわけですね。
秦の始皇帝の時代、皇帝家と姻戚を結ぶと言う事の意味を深く考える必要があります。単純に血姻を結ぶだけではない事は容易に想像できることだと思います。
霊的なものをないがしろにて皇帝に即位出来ようはずがありません。
つまり、その霊的ななにかと関係を持つメソッドも伝授されたことが考えられます。
豊玉彦は、モーゼ直系の十戒石を核としたヘブライ式のメソッド、要するにカバラと呼ばれているものと、始皇帝直伝の祈祷方法、そして元々伝わってきた白川伯王家の方法(伯家神道)の種類の「神」と繋がる方法を手に入れたのでしょう。
西アジア、東アジア、極東の叡智が結集したこの時、豊玉彦は霊的にシルクロード制覇した言っても過言ではないでしょう。
白川伯王は太政大臣として九州王朝を補佐していたが、孫の豊玉彦の時代には更にモーゼの血統と始皇帝の血統を手に入れたわけですから、神武系統よりも格式上は勝るとも劣らなかったと言えます。
こうなると、いかに抜群の霊能力を持つ卑弥呼といえども太刀打ちできませんね。しかし、豊玉彦は後に歴史を改ざんしたような輩とは違い、「どげんかせんといかん」とばかりヤタガラスとは、このように私利私欲を排除できるものだけがなれる天皇の公僕であるから、に真摯に創生期の日本を卑弥呼を中心にまとめようとしていたのでしょう。
霊能力や政治力、武力があるだけでは決してなることのできない高潔な位なのでしょう。
このことが、豊玉彦を大々的にお祀りできない事の遠因にはなってはいないでしょうか。
もしかして真の九州王朝とは、豊玉彦の隠された系統を言うのではないかなんて、一つの石碑から始まった妄想終わります。(笑い)
詳しくはこちらをご覧ください。リンクを張っておきます。
孔子が官制を教わった郯国の君主・郯子と鳥伝説…春秋左氏伝・昭公十七年◆