常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

8.鷲子山上神社のふしぎな石碑

鷲子山上神社探検記で報告できなかったことがありました。

この石碑の事なのです。


上の文字は鳥(とり)の四つ点が水になっています。こんな文字見たことないよ。

鳥にも似てるし、梟(ふくろう)にも似てる。この際鳥、梟、いずれにしても空を飛ぶ鳥に違いはありませんから,それほど意味は変わらないだろうということで考察していきましょう。 

そうしたら石碑の文字は「鳥宦」または「梟宦」と読めます。鷲子山神社で「鳥宦」または「梟宦」ですからね。

これはヤタガラスの秘密事項か?と直感いたしました(笑)

百嶋CDや系図を見たときに「ヤタガラス」が出てきたものですから、飛鳥昭男のムーブックスを読んでいるものとしては、コンスピラシー系が何か絡んできそうで、そそられてしまいましたね。(笑)

そそって、そそられ~て♪なんて歌、昔ありましたよね。天使になった本多美奈子の歌でしたね。

 


《ヤタガラスとは》

wikiによれば、八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話 において神武東征の際、高皇産霊尊 によって使わされた三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。

神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている 。

また太陽の化身ともされる。

日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄 (金色のトビ )が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため 、八咫烏と金鵄がしばしば同一視 ないし混同される。

咫 (あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18cm )のことであり咫は単に「大きい」という意味である。

 

 

 


われわれ不思議探検隊が追求するのは、記紀の記述や既成概念ではなく隠されてきた真実ですから、つまり現実ですから、つじつまの合わない神話は参考程度にし、ネット(この世のアカシレコード=虚空蔵)からそれにみあった解説をピックアップしてみました。本題の「鳥宦」に戻りましょう。

百嶋先生の研究内容に興味があるほどの皆様ならこの文字を見て予想するのは、「鳥」と呼ばれた官吏(=ヤタガラス=豊玉彦の系統)だと思います。

まして鷲子山神社ですから予想通りの展開です。

 

 

さて、裏を取るために「鳥宦」をネット(この世のアカシックレコード=虚空蔵)でググってみるととたったの一つですがありました。

 


引用開始

太梁公日記


 秋、郯子が来朝し、昭公はこれと宴を開いた。(叔孫)昭子が「少皞氏が鳥をつけているのはなぜか」と問うた。郯子は次のように答えた。「吾が祖先のことですから、自分が承知しております。
昔、黃帝氏は雲を印としたので長官に雲の名前をつけ、炎帝氏は火を印としたので長官に火の名前をつけ、共工氏は水を印としたので長官に水の名前をつけ、大皞氏は龍を印としたので長に龍の名前をつけました。
我高祖の少皞氏が即位すると、<鳳鳥が飛来する瑞兆がございましたので、鳥を印とすることにし長官に鳥の名前をつけました
中略
しかし(黄帝の後継ぎとなった帝)顓頊(せんぎょく)以来、(人間とは)遠いところにあるもの(龍・鳥・雲など)を印とすることが出来ず、身近なものを印とするようになりました。
長官に民事に縁のある名前をつけるようになったのは、以前のように出来なくなったからですと。仲尼(孔子の字・あざな)はこの話を聞いて、郯子に会ってこれを学んだが、やがて人にこう語った、「天子のもとで古い官制が失われると、官制の学問は都より離れた四方の小国に保存される、と聞いていたが、それはやはり真実であった」と。
郯国は古代中国の祖、黄帝の長男・少昊(しょうこう・東夷族国の領主)を始祖とし赢(えい)姓の国である。
さて、郯国はその後どうなったか。
春秋時代が終わり戦国時代に入ると、強国として台頭してきた越によって滅ぼされ、その姿を消した。
亡国の折、郯国から日本へ渡ってきた者はいたであろうか?想像の翼は自由に羽ばたかせることができるのである。
<引用終了>
これこそヤタガラスの起源ではないか?

郯子は赢(えい)姓だと言うことです。百嶋系図によれば、豊玉彦は大幡主とイザナミ(金山彦の妹)の子ですから、母系はサンズイ赢(えい)姓ですね。なぜ金山彦系がサンズイ赢(えい)氏かというと、百嶋先生は大陸で調査結果を持ってこういっておられました。ヘブライ系の金山彦の先祖は、アレクサンダーに追われ、追われ、追われ、東へ逃げて、逃げて、逃げて、中国を経由して日本に入ったが、中国、当時は秦の始皇帝の時代。
金山彦の先祖はヘブライの中でも超格式のモーゼの直系であったため、始皇帝と縁組をゆるされ赢(えい)姓を名乗れるようになった。
赢(えい)氏は航海して日本にたどり着いたので、赢(えい)にサンズイをつけた文字を使っている。
つまり豊玉彦もサンズイ赢(えい)氏を名乗っても何の不都合もなかったわけですね。
秦の始皇帝の時代、皇帝家と姻戚を結ぶと言う事の意味を深く考える必要があります。単純に血姻を結ぶだけではない事は容易に想像できることだと思います。
霊的なものをないがしろにて皇帝に即位出来ようはずがありません。
つまり、その霊的ななにかと関係を持つメソッドも伝授されたことが考えられます。
豊玉彦は、モーゼ直系の十戒石を核としたヘブライ式のメソッド、要するにカバラと呼ばれているものと、始皇帝直伝の祈祷方法、そして元々伝わってきた白川伯王家の方法(伯家神道)の種類の「神」と繋がる方法を手に入れたのでしょう。
西アジア、東アジア、極東の叡智が結集したこの時、豊玉彦は霊的にシルクロード制覇した言っても過言ではないでしょう。
白川伯王は太政大臣として九州王朝を補佐していたが、孫の豊玉彦の時代には更にモーゼの血統と始皇帝の血統を手に入れたわけですから、神武系統よりも格式上は勝るとも劣らなかったと言えます。
こうなると、いかに抜群の霊能力を持つ卑弥呼といえども太刀打ちできませんね。しかし、豊玉彦は後に歴史を改ざんしたような輩とは違い、「どげんかせんといかん」とばかりヤタガラスとは、このように私利私欲を排除できるものだけがなれる天皇の公僕であるから、に真摯に創生期の日本を卑弥呼を中心にまとめようとしていたのでしょう。
霊能力や政治力、武力があるだけでは決してなることのできない高潔な位なのでしょう。
このことが、豊玉彦を大々的にお祀りできない事の遠因にはなってはいないでしょうか。
もしかして真の九州王朝とは、豊玉彦の隠された系統を言うのではないかなんて、一つの石碑から始まった妄想終わります。(笑い)

 

 

詳しくはこちらをご覧ください。リンクを張っておきます。

 

孔子が官制を教わった郯国の君主・郯子と鳥伝説…春秋左氏伝・昭公十七年◆

 

7.1 八溝峯神社探検記

≪八溝嶺神社≫


八溝山の頂上に鎮座しています。

冬期の晴天時には遠く富士山が見えます。


富士山の手前左側には、鷲子山、筑波山がはっきりと眺望できます。北西には那須連山、西方には日光連山が、手が届きそうな感じで見ることができます。


見張り台に最適な場所ですね。



八溝峯神社の千木(男)

 

 

 

 


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玄松子さんのHPから引用(抜粋)


一説には、第四十五代聖武天皇の頃、伝教大師湯殿山修行の時、南方の八溝山を見渡せば、奇瑞雲が現れれたので山頂に登り、山王二荒両社を建立したのが始め。

社伝によると、景行天皇四十年、日本武尊八溝山に立てこもる賊を討ち大己貴命事代主命 を祀ったのが当社の起源。


室町以降は茨城県常陸国だが、古代においては陸奥国に属しており、当社は、陸奥国式内社・八溝嶺神社に比定されている神社。

以前は広い信仰圏を持ち、
白河郷北郷八十六ヶ村と南郷五十八ヶ村(福島県)、那須郡二百六十ヶ村(栃木県)、依上・保内郷四十二ヶ村(茨城県)が氏子範囲であった。
現在は茨城県側の人々によって祭祀が行われているらしい。
旧暦四月十七日に行われる梵天まつりでは、
梵天(金紙・銀紙を張り付けた5・6メートルの飾り付けられた鉾)が奉納される

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これだけの氏子範囲を持っていたと言うことは、当然ながら、近津三社の氏子範囲と重なってきます。


今の茨城県大子町、栃木県の那須町大田原市那珂川町那須烏山市、さらに福島の中通りの南側白河市周辺の広大な範囲に勢力を持っていたことがうかがえます。


鹿児島県錦江町の近津神社は、社伝に鵜戸神社は其の地幽邃にして、人々が恐れて乱りに近寄らない為、その遙拝所として当神社を建立したという。


栃木県西方町の近津神社も同様で日光の二荒山神社を勧請して祀ったようです。


これらの例から考えれば、大子町の近津神社も同じように、八溝嶺神社の遥拝所だったのではないでしょうか。


最初に書いたように近津三社が、馬場、八槻、下野宮だったなら、下野宮のご祭神だけが異なることはないでしょう。

とりあえず、近津三社とは元来は下野宮、町付、上野宮の三社であり、八溝嶺神社の遥拝所としての神社だったと現時点では結論付けておきます。

 

別な意味になると思いますが、馬場、八槻、石の都都古別神社も近津三社で良いのではないでしょうか。


(ここでは論じませんが)

 


次に大変興味深いHPを見つけたので引用させていただきます。


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丹後の地名さんのHPから引用

八溝山の鬼(茨城県久慈郡)
『鬼伝説の研究-金工史の視点から-』(若尾五雄・1981)に、

 

八溝山の鬼

 さらに北上して、茨城県には、次のような古来からの有名な黄金の産地、八溝山がある。
茨城県久慈郡八溝山 北は陸奥国白川郡に属し、西は下野国那須郡に接し、東南は皆常陸の地にして久慈郡なり、山中洞穴多し、古へ黄金を掘りし処なり。仁明天皇承和三年春乙丑詔して陸奥国白河郡の国司八溝山黄金 神を祈りて沙金を採り得て、遣唐使の資を助しと、山上又大悲閣あり、坂東順礼の一なり。日輪寺、月輪寺と云両院あり、修験住せり、いつの頃よりか光蔵院、勝蔵院と云て別当となりしと云、今山上に二院ありて、山下に一院あり、合せて三別当と云、(紀行)那須記 八溝山には竜蛇が住み人民を残害せり、須藤権守某、八溝山の奥笹ヶ岳にて平治せり、とあるように、ここは三国にまたがる山だが、古来から黄金の沢山出たところで、『延喜式』によると、八溝嶺神の祀られているところである。つまり黄金神といわれる神が祀られていて、これも山そのものが黄金を胎蔵するからこそ、黄金神として神体山になっている。ところでここには、次のような伝説がある。
大同二年(一説には弘仁一二年)弘法大師は、湯殿山から鹿島への途次、八溝山の麓にさしかかったところ、谷川に香気がただよっていた。大師は、この山上は仏陀の浄土ならんと感じた。しかし土人の言によれば高笹山の山腹に鬼神が住み、ときには鬼形、ときには蛇身、または婦人、童子と化して、ややもすれば人に害するとのことであった。この鬼神を鬼賊大猛丸という。大師は高笹山にのぼり、虚空に般若の魔字品をかくと、鬼神はたちまち退散した。大師は絶頂に立ち、その山容を見て八溝の嶺と名づけた。
また池田城の城主藤原富得は、八溝山に悪鬼と大蛇がいて住民を害するのを怒り、これを退治に出かけた。途上、大風おこり、山は鳴動し、暗雲がたちこめ、雲中より眼が鏡のように光り、口から炎を吐く大蛇があらわれた。このとき空から不思議な一童子があらわれ大蛇を退治した。童子は風神の化身であり、そのとき大蛇を投げおろした土地を蛇穴という。
 さらに栃木県馬頭の大金童貞の「那須記」によると、八溝に鬼神がおり、近くの住民をさらってこれを食ったという。鬼神は岩佐九といって、八溝の笹岳の岩窟に住んでいた。宣旨により那須の地頭職須藤権守貞信が大将となり、郎党二百余騎、近村の勢子五百余人の大勢で退治に向った。勢子頭を蛇気地次郎といった。貞信は不思議な老翁に案内ざれ悪鬼の在所にいたり、首尾よくこれを退治した。悪鬼は数千年を経たカニの化身であった。その頭を斬り落すと光を放って飛行し、勢子頭蛇気地の家の庭木に止り大蛇と化した。貞信の建立した三王権現の神霊が大猿となり、毎夜、この大蛇と戦って、ついにこれを退治した。(茨城県大子町黒沢小学校報告)
これらの伝説のいずれにも鬼や鬼退治の話が出てくる点、そしてこれらの地が、鉱山地帯であり、黄金山という神体山であることは、今まで述べてきた鳥取、岡山、京都、岐阜、栃木の各府県にあった鬼退治の話と同様、鬼と鉱山との深い関連を示している。これは、かの有名な大和国修験道の総本山である吉野の金峰山が、ただ仏教の比喩として金峰山の名が出たというようなものでなく、量の多寡はともかく、実際に金を生ずる山なるが故に金峰山といい、その山の神霊を金山彦命(金精神)というのも、そのためであることがわかる。
 なおこれらの伝説の中には、蛇の話が鬼と共に出ているが、蛇もまた鉱山と関係がある。八岐大蛇を筆頭に諸国に山と関連した竜蛇の退治される話があるが、やはり鬼と共に金工に関することであることは、はっきりしている。そのことは別の機会に述べることにする。

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この内容はとっても興味深いですね。まつろわぬものの征伐が伝承として残っています。


まつろわぬものはたいてい鬼や蛇として表現されています。


藤原富得のところでは風神の化身の童子が現れて悪鬼と大蛇を退治しています。風神ですから、これはもう完全に級長津彦(海幸彦、建雷槌)ですね。

すだから、祭神に付け加えたと予想できます。


那須記」でははっきりと「鬼神は岩佐九」といっています。イワサクですよ。イ・ワ・サ・ク。


結論、悪鬼といえばこの地域ではカガセオでしょう。大蛇はおそらく木花咲耶姫だと推定します。


(飛躍しすぎか、笑)


日本建命の絡みはまだ何にも考察できていませんので、考えがまとまったらアップしたいと思います。


長々と読んでいただきまして、ありがとうございました。(=⌒▽⌒=)


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まとめ(そうとう主観でまとめています。笑)

 


常陸国を管理していたナガスネヒコ系(カガセオ)が木花咲耶姫系と鉱山を開発していたが、後年、藤原氏(鹿島大神)の進出により勢力を失っていった。鹿島大神は香取との連合軍でも制定できなかったため、豊玉彦に援軍を仰いだ。静神社のまとめでは、木花咲耶姫がカガセオ(ナガスネヒコ)を懐柔したと想像したが、ここでは鉱山開発を協力して行っていることや伝承から想像し、一歩進めて、ナガスネヒコ木花咲耶姫と夫婦だったと爆弾的予想をしておこう。

7.近津三社探検記(茨城県大子町)

今度の探検は自宅から程近い(一山越えたところ(笑))県北大子町の近津神社、八溝峯神社で


す。


タバッコ峠を越えて栃原からアップルラインで大子に行きます。


タバッコ峠はいつからそう呼ばれたのかはわかりませんが、弘法大師空海)が峠を越えるときにタ


バコを吸ったからという言い伝えがあります。一般的にタバコは鉄砲伝来と一緒と言われていま


すから、空海がタバコを吸ったはずはありません。つまり、この伝承はごじゃっぺ(でたらめ)ということ

 

になりますね(笑)


ちょっと疑問を持ってインターネットで調べると、本当のことが瞬時にわかります。インターネットは、アカ


シックレコードだと誰かが言ってました。問題は「疑問を持てるか」と「どの答えが本当か」を見極める


目を持つことです。神社探検にもこれは言えます。百嶋先生のCDを聞いたり、系図を見たりしていたら、


何に疑問を持ったら良いのか?どの答えが本当らしいのかがおぼろげながらわかってきたような気がし

 


ます。気がしますですから、まだまだですけど(笑)


神社をたくさん参拝してHPを書いている人がいますが、疑問は持たないのでしょうかね(笑)


基本的、記紀は史実ではないと考えているくせに、神社の由緒書は事実だと思っているのでしょうか。


それとも、いつも言うように現世ご利益を期待しているのでしょうか(笑い)


神社は神様と呼ばれているモノを祀ったものではありません。基本的には日本の創世期に活躍した実在


の人間を祀ったところです。記念碑です。要するにお墓のようなものです。お墓に行ってご先祖様お守りく


ださいと祈ったところでこの世で実際に何かをするのは自分自身です。気休めにはなるかもしれませんが


(笑)霊になった人がこの世の人間に何か働きかけたら、それは普通成仏していないと言う事ですからね


(笑)これこそ低層4次元(幽界)にとらわれてしまった人たちです。


(神社のもうひとつの大きな役割はおいおい考察していきます。)


かといって神と呼ばれるものはいると思っているし、守護霊と呼ばれるものも存在すると思っています。


超能力も、UFOも、あの世もあると思っています(笑い)坂本政道ファンです。(笑)飯田史彦も、本山博も


愛読書です。

 

さて、近津神社はちかつじんじゃですが、千勝神社と書いてちかつじんじゃという神社もあります


ね。茨城県北および福島県南は近津神社で、茨城県南は千勝神社ですね。


大子町は山しかありません。(笑)いえいえそんなことはありません。温泉もあり、袋田の滝もあり、りん


ごの産地で茨城県では一番の観光地ですね。


また栃原金山があり、硯石もとれ鉱物資源にも恵まれていたところです。


百嶋CDでは、近津はちかつと読みますが、きんつとも読み金山彦との関係が指摘されています。


百嶋先生は勘違いして栃木県と言っておられましたが、直線距離で10km程茨城県側ですので、ご了承く


ださいませ。(-^□^-)


近津神社は久慈川の支流八溝川沿いに、下野宮、町付、上野宮の三ヶ所に祀られています。


それで通称近津三社と呼ばれています。近津三社の呼称に付いては別な見方もあり、下野宮の


近津神社と陸奥国一ノ宮、福島県棚倉町近津の八槻都都古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)と


棚倉町馬場の馬場都都古和氣神社(ばばつつこわけじんじゃ)の三社をもって近津三社という場


合があるようです。

 

 

山門

近津神社の由緒を玄松子さんのHPより引用させていただきます。


郷社 近津神社
祭神 級長津彦命  面足命  惶根命
創建は社傳に拠るに、文武天皇慶雲四年、藤原富得、夢に神あり、白羽の矢を授けて曰く、吾近勝明神なり云 云と、因て八溝山の悪鬼を除去せしむるを得たりと、此事奏上に及びしかぱ、勅して此地に社を営ましめら る、是れ本社の創建なりと云ふ、本社は、元と陸奥に属し、彼の陸奥白川郡馬場近津明神の下宮なりと、後小 松天皇應永十三年四月源兼保、地三千貫を寄奉る、但、之れ義家の例に依ると、次いで永正十一年六月、佐竹 義治更に六百五十貫の地を寄せ奉りしが、徳川氏天下の権を握るに至り、社領三十六石八斗、及除地十五石 八斗三升四合を寄奉る、明治維新一度村社に列せしが、後九年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、其他神楽所あり、本殿は神明造りにして南に面す、壮麗にあらざるも瀟洒却て神威の高き を仰がしむ、境内は千二百七十五坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林二反七畝十七歩より成る、「前 に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふ、而かも東西老檜天を蔽ふ、蓋、自然の神地たり。


-『明治神社誌料』-


ご祭神は
面足尊 (おもだるのみこと)

惶根尊 (かしこねのみこと)

級長津彦命 (しなつひこのみこと)


面足尊 は百嶋系図によればきんつと読んだ通りの金山彦ですね。玄松子さんのHPによれば惶根尊


は面足尊と対の神との事なので百嶋系図によれば埴安姫か大市姫ということになりまが、ここでは


鉱山の神岩裂と考えて埴安姫が妥当だと思います。

 

 

 


級長津彦命 は海幸彦(天忍穂耳、草部吉見、建御雷、風神様)ですね。

 

≪下野宮近津神社≫


日本武尊が創建したとの書付がありましたが、時代がごじゃっぺ(でたらめ)です。慶雲四年は文

 


天皇の時代ですから、日本武が創建できるわけがありませんね。何も知らない人は、素直に信じて


しまいますね。(写真参照)タバッコ峠と同じ部類ですね。(笑)


玄松子さんから引用した由緒によれば、創建年はおなじですが、創建者は藤原富得ということになっ


ています。この藤原富得があの藤原氏であるなら、面足尊、 惶根尊 に加えて級長津彦を祀った


理由がわかります。藤原流下剋上です。

 

ごじゃっぺな書付


また、「常陸国久慈郡七座の一 稲村神社」と刻字された石碑が立っていますが、延喜式


の成立は10世紀初頭なので、この時陸奥国だった大子町下野宮は式内社の稲村神社ではありえないで


しょう。これもごじゃっぺ(笑^2)


上の書付は宮司が書いたものではなさそうなので、まあご愛嬌なのですが、こんな石碑を堂々と立ててし


まう感覚には驚かされますね。それともお上から(徳川or明治政府)の指示だったのでしょうか?


 

 

ごじゃっぺな石碑(常陸国二八社久慈郡七社之一 稲村神社と刻字)

 

山門の社名額は「延喜式内 石都々古和気○」と読めます。石が入っているのは石川町の都々古和気神


社と同じですが、その意味は不明です。とにかく、この神社が近津三社の一つであることを

 


強烈にアピールしているようには感じます。

 

旧社名 延喜式内 石都々古和気何とか


次の伊勢大々講の石碑はすごく立派なのですが、その奥にあるお稲荷さまは質素でした。質素


というより粗末といったほうがいいでしょうか。写真のように注連縄が上下にあり、参拝者を拒んでいるの


か、お稲荷さんを封印しているのかと思ってしまいました。

 

 

伊勢大々講の石碑 摂社のお稲荷様

 

もうひとつ、感じたことがあります。百島系図を見られた人であれば気付くことだと思うのですが、


伊勢の外宮様がお稲荷様(豊受姫、大目姫、級長津姫、天細女)だと知っていれ


ば、(歴史の一般常識から見たらとんでもないことですが)この配置には合点がいくのです。


さらにもうひとつ。このお稲荷様は本殿のすぐ左奥にあるのですが、祭神の一人に級長津彦 (しなつひ

 


このみこと=海幸彦)がいることを考えれば、豊受姫と海幸彦がご夫婦だったのでまた合点がい

 


くのです。こんなことを創建した人が知っていたかどうかはともかく、百嶋先生のCDに出てくる程の神社で

 


すから知っていてこうしたのかもしれません。

 

 

源義家が鉾を立て掛けたといわれる鉾スギ

 

金精様(金山彦?) 聖徳太子の碑

 

 

田植歌 御田植祭のポスター


本殿に千木もないのに色々とにぎやかな神社でした。(笑)

 

 

 


≪町付近津神社≫

 

 

千木はおなべ千木でした(笑)

 

摂社の天満宮

 

こんな千木はこれまでお目にかかったことがありません。何かの意味はあるはずですが、今のところ


不明です。千木がある分下野宮神社より格上なのでしょうか。丸に上の紋もあるし(冗談)。 


ここも近津神社の石碑と共に稲村神社の石碑が立っていました。(よほど常陸国久慈郡式内社になり


たかったのでしょうね)

 

 


≪上野宮近津神社≫


ここは三社の中でも一番興味深かったですね。小字名も稲村になってます。(笑)おそらく水戸徳川家


寺社改革時に地名まで変えさせられた可能性が考えられます。


本殿には水戸葵紋の垂れ幕がかかっていました。水戸徳川家にとっては下野宮、町付よりも上野宮に何


かしら重点を置いていたのでしょうか。何せ明治政府が正史をまとめる時に参考にした大日本史を編


纂していたくらいですからね。



本殿神紋は水戸葵 変わった狛犬(サルだね)

 


 
侯爵徳川圀順の筆による社名額 灯籠に有った丸に上の紋

 


WIKIによると、徳川圀順(くにゆき)は水戸徳川家13代当主。貴族院議長、幼少時父篤敬がイタリア特命


全権大使に任じられたため渡欧。ローマで暮らす。圀順が20歳の時に大日本史完成。明治天


皇に献上。その後日本赤十字社社長。昭和4年にその功により侯爵から公爵へ陞爵する。


なんという事でしょう。(前にも書いたこのフレーズ、笑)


この圀順の時に大日本史が完成だなんて。


ローマで暮らした上に日本赤十字社社長。何か臭いますね。陰謀論の臭いがプンプンしま


す。


日本赤十字社は国民から一軒当たり最低500円集める団体です。寄付は任意ですが、私の住んでいる


地域では、自治会の役員の方が集めに来ます。87歳のおじいさんが何の疑問も持たず、ニコニコしな


がら、さも当然のごとく徴収に来ているのが実態です。行政の下部組織としての自治会が会費の徴収を


担っているのですね。(天下り代表格、市の社会福祉協議会の寄付金は無条件に500円徴収されてます


が(怒)(笑))


戦前は天皇家が中心の社団法人機関、現在は厚労省認可法人。何だか神社の形態と似てますね。名


誉総裁は皇后、現社長は五摂家のひとつ近衛忠煇、元総氏理大臣細川護煕の実の弟です。


各県に支部があり多くの県で支部長は県知事です。


要するに税金の代わりに半強制的な寄付金で運営する国家機関と言うことです。


詳しく知りたい方は「だ いだいこんの日常 」を参照ください。


神社は宗教法人、非課税団体です。大元締めは誰なのか。日赤も神社もお寺もたどり着くところは日本


最高格式家に繋がってしまうのです。日本の国教は正史では物部氏蘇我氏と戦って敗れ、橘の紋

 


から椿の紋に変わったときから仏教です。神道はそれ以上の存在ですね。別格なのです。


アンタッチャブルな組織なのです。戦後は国家は政教分離大義名分として神社もお寺もただの宗教法


人扱いしていますが、じつに深く深く国民の中に浸透しているのです。パワースポットだとかいって畏怖心


や、依存心を煽り参拝者から賽銭やお布施を集める集金組織に過ぎませんね。


お寺に至っては死んだ後まで49日や1回忌などで支配し続けます。全ては恐怖心です。恐怖心を植え付


けることで支配をするのです。


こんな家系が創生期に日本をまとめ上げた九州王朝の末裔だとは信じられません。

 


話しが横道にそれ過ぎました。(笑)


石灯籠の紋は村上水軍のもののようです。村上水軍は隊長の先祖河野水軍とも関係があります


ね。水軍でも海賊でもあったようですが。


千木は女千木でした。

 


千木は女千木


向かって左側の境内社には鷹の羽紋が堂々とついており、阿蘇家とのつながりを予見させま


す。おそらくこれが級長津彦では内科と思います。


隣の武澤神社については、この世のアカシックレコードのインターネットでは何も見つかりませんでし


た。祭神は範善法海命となっています。



違い鷹の羽紋のある摂社 左隣の石の祠 武澤神社

 

本殿は大変立派で、写真のように拝殿を押しつぶしそうでした。三社の中でいちばん大きく造りも立派で


した。


 

拝殿が本殿につぶされそうです。


身かって右側の摂社は二つあり、天満宮とお稲荷様でしたが、二つとも劣化を防止するように中尊寺


色堂のように建物の中に入っていました。天満宮の屋根には右割れ立ち葵の紋が、お稲荷様の屋根には


橘紋を見ることが出来ました。百嶋CDに出てくる由緒ある紋です。


菅原道真天満宮が右割れ立ち葵紋をつけているのを見たのは近隣では初めてです。


百嶋系図では豊玉彦(ヤタガラス)の子、武夷鳥(とりのこ2)が菅原家のご先祖なので、橘紋を使っても


おかしくはありません。


稲荷社の橘紋も非常に珍しいのではないかと思います。


なので、最初にアップしたときは反対に書いてしまいました。


一説によれば、近津神社はもともと下野宮にだけあったものを水戸徳川家が町付と上野宮に分祀したと


のことですが、これまで調べた感じでは、上野宮が最も古く格式の高い神社のように思います。

 



お稲荷さんの橘紋

 


天満宮の右割れ立ち葵神紋


追記:

5月25日に上野宮に行って見直してきました。朝アップしたときは、天満宮とお稲荷さんの神紋を反対に描いていたので、訂正いたします。近所のおじいさんに話を聞いてきたのですが、この二つの境内社はこの地区の家の氏神様だということです。天満宮は本多家の、お稲荷さんは益子家の氏神様です。

本多家の家紋は右割れ立ち葵でした。本多家には松浦筑前守の墓碑があり写真を見せていただきました。311地震でお墓が倒壊したときに発見したそうです。だから、先代はこんなお墓があることは知らなかっただろうと言っていました。本多のおじいさんは、今は終活をしているが、あの世に行くのではなく次の世に行くのだなどとすばらしいことをおっしゃってました。

益子家の家紋は確認していませんが、益子家はどうも栃木の益子から移住してきたと伝わっているようです。

 


足を運んだおかげで、丸に上文字の家紋の謎の解明の糸口が見えてきました。本多家墓地に隠れていた「松浦筑前守墓」の墓碑がそれです。村上水軍と行動をともにしていた氏族でした。

詳しくは後日報告いたします。

 

6.茨城県北部の地名についてー九州、四国との類似性

今日はちょっと趣向を変えて、茨城県北部の地名について書きます。

茨城県は関東地方なのですが、静岡あたりから西の方に住んでいる人から見ると、東北地方に思われていることが多いようです。まあ、小学校程度の知識もない奴らのたわごとだと思っていますが(笑)

そうはいっても、私達から見れば佐賀県はどこにあると言われてもピントは来ませんけど。(笑×2)

茨城県のイメージはたいていの場合(これって茨城弁か?)大体の場合ですね、県南のイメージが強く、広い大地と霞ヶ浦筑波山、そして太平洋です。

 

茨城県民の歌≫


1.空には筑波 白い雲
  野には緑をうつす水
  この美しい大地にうまれ
  明るく生きるよろこびが
  あすの希望をまねくのだ 
  いばらき いばらき われらの茨城


2.ゆたかなみのり 海の幸
  梅のほまれにかおるくに
  このかぎりない恵みをうけて
  おおしく励むいとなみが
  あすの郷土をつくるのだ
  いばらき いばらき  われらの茨城

 

3.世紀をひらく 原子の火  
  寄せる新潮 鹿島灘    
  このあたらしい 光をかかげ
  みんなで進む足なみが
  あすの文化を気づくのだ
  いばらき いばらき われらの茨城

 


ところが県庁所在地の水戸を過ぎるころから、北部は山並みが目立ってきます。

山と言っても九州や四国、岐阜や長野などに比べたら丘といったほうがよいような山がほとんどです。

北茨城市大子町の一部は「山」と呼んでもいいかなっていうくらいのものです。

茨城県で最も高い山は筑波山だと思っている方が多いようですが、実際には八溝山が最も高く1022mあります。

この頂上には八溝嶺神社が鎮座しております。

八溝と言う名前はヤマタノオロチを連想させますし、ヤマトタケルが賊を成敗した伝説が残っています。

 

そして県北(旧常陸国)には大きめの川が2本流れています。

南側が那珂川、北を流れるのが久慈川です。

那珂川を河口から遡って行くと、まず那珂川北岸が那珂湊(今のひたちなか市)、南岸が大洗町

那珂湊には酒列礒崎神社があり、大洗には大洗磯前神社があります。曲者の神社です。

那珂湊には阿字ヶ浦といういかにも修験を思わせる名の海岸もあります。

次いで水戸市水戸市には全隈(またぐま)町というところがあります。隈(熊)からの移民が多かったでしょう。

水戸市は昔は那賀国でした。そばを流れる川は那珂川(大昔は粟川と呼んでいた)です。

木葉下(あぼっけ)町と言う地名もあります。アイヌ語でしょうね。

参照→

木葉下(アボッケ) | スピリチュアルヒーラー宮古の縁側日記(改め)龍族を探して

 

飯富(いいとみ)町には大井神社があります。そうです。大生神社の系統です。昔は飯富とかいて「おふ」と呼んだようです。那賀国造の建借馬命=建御雷が祭神ですね。

多氏の神社です。分かり易いですね。はっきりと鹿島の神は多氏と言っちゃってます。(笑)

更に上流へ向かうと北東側は那珂市(那珂町と瓜連町))です。那珂市那珂川久慈川にはさまれています。那珂市鹿島神社がすごく多いのです。たぶん山間部に逃げ込んだカガセオ族を見張っているのでしょう。前回報告した静神社那珂市にあります。

南側が城里町(旧常北町と旧桂村)役場のある大字が石塚、ここはカガセオが粉砕した時に飛び散った石が落ちた場所と言われています。

つぎは旧桂村。ここはアワが着く地名あります。阿波山、粟。阿波国関連であることは間違いないでしょう。

今日阿波山上神社に寄ってきました。少名彦名命を祀っているのですが、千木は女千木でした。本当の祭神は大杉姫(鳥子神の母)みたいです。

 

岩舟と言う地名もあります。当然ながら石船神社がありますね。

そして茨城県最後は常陸大宮市(旧御前山村)。

御前山は孝謙天皇(称徳天皇)が弓削道鏡と隠れ住んだという言い伝えのあるところです。

天皇が住んだ山なので御前山。

和気清麻呂による宇佐神宮のご宣託により、天皇になりそこなって下野国薬師寺に流され、そのあと孝謙天皇と御前山に来て住んだと言われているところです。

栃木茨城には道鏡孝謙天皇にちなんだ伝承が各地に残っています。

しかし、「うそ八百」 と 「うさ八幡」は そっくりですね。(笑い)

先日ここもドライブしてきました。

近所なのですが、初めて通りました。

相当山の中になります。中腹まで行くと弁財天の看板があり公園のようになっているのですが、周りは鉄の塀で囲われ「本日休館」と書いてあり、門には施錠されていまた。

周りには、数件の家があり、弁天様を守っているように思いました。

不思議なところです。

この沢は皇都川といいます。光戸ともいうようです。後日探検してきますね。

御前山村野口から緒川と言う支流に入るとすぐに旧緒川村(常陸大宮市)。

門井(かどい)、那賀、小瀬(おせ)と続きます。

さらに上流へ行くと私の住んでいる旧美和村(常陸大宮市)。

那珂川河口から50kmの長旅でした。
栃木県境の鷲子(トリノコ)と言う集落は当然、豊玉彦(八咫烏)の子から来ています。

熊久保、桧沢、氷の沢、九州王朝に関係しそうな名前が目白押しです。

山を一つ越えて栃木県那珂川町にいくと、大那地(大きな那の地ですよ!)和田ア○子が日本国籍を申請するときに住んでいたという噂がありますね。

大田原家庭裁判所に申請したらしいですよ。

これで緒川は終了。

那珂川本流に戻ります。

近くには桧山と言う地名もあります。

伊勢畑を超えると栃木県茂木町に入ります。伊勢畑には天照神社があるので伊勢幡という地名になったのでしょう。

それから、旧烏山町那須烏山市)、旧馬頭町那珂川町)、旧黒羽町(大田原)、那須町と続き那須連山にたどり着きます。

烏山は旧美和村と県境で鷲子神社の南西に位置します。やっぱり八咫烏関連なのでしょうか。

そういえば、烏山の滝というところには、当然滝があるのですが、そこの民俗資料館?には、鎌足が幼少の頃住んでいたという伝承が掲載されていました。対抗意識でしょうかね(笑)

上流の馬頭町はゆり金の里といわれ、国内で最初に産金したところの一つと言われています。

大田原市源平合戦の英雄、那須与一の出身地です。

伝承によると生まれたのは旧小川町(現那珂川町神田城)だといわれています。

那須烏山市の上境という説もあるとのことです。

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次に久慈川をさかのぼってみましょう。

北側は日立市日立製作所発祥の地です。日立製作所熊野神社を祀っています。

創業者は小平波平。栃木県の出身です。もとは日本鉱業の設備担当。久原房之助が創業者ですね。

政治家にして大物右翼でした。日産コンツェルン鮎川義介の義兄ですね。

ここにも田布施システムの臭いを感じます。現代まで続く藤原下克上の歴史ですね。

少し川から離れて北上すると大みか町があります。大甕倭文神社(おおみかしとりじん

じゃ)があります。カガセオの本拠地です裏山は風神山と海幸彦風な名前になっています。

甕の原とか泉川とか京都と同じ地名があります。

ちょい北に行くと水木町。ここには泉神社があります。風神山からの伏流水がコンコンと湧き出しています。豊玉姫とも言われる速玉姫が鎮座しています。弁天様もいます。

水木の浜は東西金砂神社の72年に一度の浜降り神事の目的地です。

金砂の神はここから上陸したようです。百嶋先生が言っていたバンブーボートに乗って、神武巡幸の時に金山彦たちが上陸したのでしょう。西金砂神社にはこのバンブーボートの絵が飾ってあったとも言ってましたね。

そして南岸は東海村

日本で最初に原子の火が灯ったと昔は誇らしげに言っていた東海村です。県の歌にも出てきますね。当時は画期的なことで、原子力を文化だと思っていたのですね。

311以降は悪魔の申し子、文化を破壊するものとしての隠してきた力を誇示しています。

今でも原子力の関連施設が多数あります。JCOもあります。バケツ臨界チェレンコフ現象を起こしたあのJCOです。

東海村には、亀下があります。これは大甕と久慈川とはさんだ対岸にあり、本当は甕下でしょうね。亀は豊玉彦と関係があるかもしれません。(亀甲紋から)

原研東海の近くには伊勢と同じく阿漕が浦もあります。

白方、石神、ここもカガセオ石が降り落ちた地になっています。茨城県北の石のつく地名は、カガセオに関係がありそうです。

久慈川に戻って内陸部に向かいましょう。

常陸太田市です。佐竹氏が当初本拠をおいた地です。

400年以上にもわたって当地を統治した稀有な氏族です。

風神山の西麓には亀作と言う地名があります。

ここも本当は甕作でしょう。

常陸太田市から旧金砂村郷にかけては中臣鎌足の荘園だったと言われています。

真弓町は真弓神社の山麓に位置し、この神社はあの金砂神社の大祭礼の時に、弓を引かれてしまう不思議な神社です。

攻撃のつもりなのか弦を鳴らし音楽で誘惑しようとしているのかは定かではありません。(笑)

河合町、堅磐町(かきわ)から里川が北に延びています。ここは常陸太田市の東側を通り、まで続いています。旧里美村が分水嶺となっています。ここを超えると福島県矢祭町になります。

この沿岸は、それほど広大というほどではありませんが、阿武隈山地の南端の谷間に開けた扇状地がおいしいお米を作ります。(隈が出ましたね。隈が(笑い))

上流へ向かうととっても興味深い神社が目白押しの地域です。

まず、幡町。

ここには長幡部神社があります。

西宮町には当然のように西宮神社(戎様)が鎮座しています。

次の里の宮町に薩都神社。

白羽町には天白羽神社がそれぞれ鎮座。

薩都神社のはす向いは瑞龍町で、水戸徳川家墓所、瑞龍山があります。

春友町、町屋町と続き、日立市中里町に入ります。

ここは、日立鉱山の西側に位置しています。

これらの神社は別途詳しく報告させていただく予定です。


新田次郎の「ある町の高い煙突」から海風に乗って流れてくる煙害の被害を受けたところで、本来なら常陸太田市に入るべきところ、行政上は日立市に属しています。同じ常陸太田市内に国道を経由して行くのに、日立市を経由しないといけないという不思議なところです。

不思議といえば、この中里地区の奥、東側の日立市と境を接するところ日立市入四間町に、御岩神社があります。修験の山です。

あのお岩さんを祀った神社ではありません。(笑い)

この裏山は常陸国風土記の賀毘礼の峰に比定されるところで、NASAの宇宙飛行士向井千秋さんともいわれています)が見たという地上からまばゆい光を発していたところとの噂で有名になり、昨今では参拝者が増えています。

スピ系の間では、最高のパワースポットとか言われていますね。かといって、現世ご利益ばかりお願いしてくると、低層四次元の輩にカモにされてしまいますから要注意)です。(笑い)

 

久慈川本流に戻りましょう。

粟原というところがあります。ここは久慈川下流三日月湖があり釣り場になっています。

ちょっと上流に行くと、島とか小島とかがあり、縄文の海進時には海だったことがうかがえます。(控えめに書いてますが、島とか小島とかの地名をつく時代に島だったということでしょう。だから縄文時代のお話では済まなくなりますね)

島には茨城県第二の前方後円墳があり、久慈国造、舟瀬足尼の墓と伝わっています。舟瀬足尼は、ふなせのすくね、と読ませていますが、百嶋先生の神代系譜にある「武内足尼」(スサノヲの娘で長脛彦の妹)は、たけうちたらしに、と読んで女性です。すくねと読んだら、たけのうちのすくね、になってしまいますよね(笑い)。

百嶋先生は武内足尼の子孫は代々「足尼」を名乗っていると言っておられたので、もしかしたら、この舟瀬足尼は武内足尼の子孫なのかもしれません。

私が推測しているようにカガセオが長髄彦だったなら、兄妹ですのでそれも十分にあり得ることです。と言うか重大な証拠の一つに挙げられる事実となります。

日立市の風神山からは直線距離で5km程度の近さです。

 

島を遡ると常陸太田市でも旧金砂郷町に入ります。

百嶋先生にして秘密のお宮と言わしめた「西金砂神社」の近くには赤土という地名があります。先生は「かなすな」神社といっておられましたが、「にしかなさ」神社と読みます。

西があるなら東もあります。

基本的にはどちらも日吉大権現を勧請した修験の山のようです。

72年毎の未年に磯出大祭礼(浜降り神事)があります。

これも眉唾物ですが、江戸時代からは記録が残っているので、間違いなく行われています。

江戸時代、水戸徳川家は社寺改革を推し進め、領内の神社に「浜降り神事」をやらせています。

北茨城市の花園神社、日立市(旧十王町)の黒坂神社(茨城県を作った神様といわれている)、静神社、豊受皇大神宮などがそうです。特に旧那賀国の浜降りは酒列礒埼神社を中心とした祭礼で「ヤンサマチ」とよばれ盛大に行われていたようですが、昭和初期で終了してしまいました。「ヤンサ」が掛け声で「マチ」は「まつり」の訛りだそうです。

このお祭りは水戸徳川家がやらせた感が強いです。

九州にも耶馬渓町大野八幡神社に「やんさ祭り」がありますね。

金砂郷町(名前からしていかにもな感じですね)には久慈川の支流で山田川が流れており、遡ると常陸太田市の旧水府村に入ります。

江戸時代は水府とは駿府に対して水戸のことを指す地名でしたが、昭和の大合併時にできた村です。水府の名前を使うことには相当の抵抗があったみたいですよ。

タバコの産地として有名で、西の国分(花は霧島、タバコは国分の国分)、東の水府といわれたほどの高品質だったようです。だから、水府村にしたとwikiにはありますが、実はですよ、光圀(黄門ちゃま)は水府村で生まれたとの言い伝えも残っているの

です。その場所は今の常陸太田市(旧水府村)天下野町(けがのちょう)です。地元には黄門が産湯に使ったと伝えられている井戸が残っています。

 

東金砂神社は天下野(けがの:)茨城県の難読地名の一つ)にあります。

この天下野地区は西金砂神社が浜降りするときに通る最初の地区で、菊池姓が多く家紋は違い鷹の羽です。長嶋家もあり家紋は三階松です。阿蘇一族と関係がありそうです。

最近グーグルのCMで一躍有名になったバンジージャンプの出来る竜神大吊り橋があります。

天下野の北は高倉と言う地域になります。山田川は以上で終了。

 

久慈川本流に戻ります。

島、小島、松栄を上ると、次は旧瓜連町(現那珂市)に入ります。ここには常福寺という南朝系のお寺があります。楠正成の甥の正家が瓜連城を居城としたようです。

前回報告した静神社もこの町にあります。

更に上流へ向かいますとすぐに常陸大宮市です。

すぐに支流の玉川が西方に続いています。

常陸大宮市の旧大宮町に下大賀、上大賀があります。阿蘇一族との関係はまだわかりま

せんが、鷹巣と言う地名もあるので、可能性大ですね。

さらに上流へ向かい岩崎を過ぎると旧山方町(常陸大宮市)。

大字の照山、小貫、山方、和紙で有名な西野内とさかのぼり支流に入ると、西金砂神社の氏子の諸沢地区があります。ここは、久慈川支流山田川沿いの天下野と西金砂神社を境にして接しています。一区、二区、三区という小字名を使う共通点があります。

あと一区、二区などを使うには東京の浅草がありますね。

神社周辺の地区の呼び方なのでしょうか。浅草(矢野)弾左衛門の支配地なのでしょ

うか。

更に遡ると、舟生(ふにゅう)、家和楽(やわら)、盛金(もりがね)、西金(さいが

ね)と続き大子町に入ります。

金が出てきました。

国内最高の含有量といわれた栃原金山はもうすぐです。

私の家から山二つ超えたところです。山間部に住む人しかわからないこの表現方法(笑)

さらに頃藤、袋田(日本三大瀑布で有名)大子と続き、下野宮となります。途中の支流には下金沢、上金沢があります。

大子はあの後醍醐天皇と関係しているという話もあり、北茨城市足洗には後醍醐天皇のお墓と伝わっているところがあります。

この下野宮は、百嶋先生のCDにも栃木県と勘違いして出てくる近津神社のあるところです。

近津三社といわれて、大子町内の下野宮、町付、上野宮の近津神社三社をさす場合と、

下野宮の近津神社、福島県棚倉町にある八槻都々古別神社(やつきつつこわけ)、

馬場都々古別神社(ばばつつこわけ)の三社をして近津三社と言うことがあるようです。

八槻都々古別神社、馬場都々古別神社 は奥州一の宮です。

祭神はアジスキタカヒコネ(ウガヤフキアエズ)です。

久慈川は下野宮から茨城県最高峰八溝山の方向に八溝川が伸びており、八溝山まで続いています。

 

以上長かった県北2大河川の旅を終わります。

5.静神社探検記2

その後、考えをまとめるためにいろいろと調べていましたが、とりあえずわかったことは、常陸国の神社はお互いに関係しあっていて、単独の神社を調べても、深い理解に到達できないという事でした。

これまでのたった二つ(鷲子山上神社と静神社)だけでも、阿波国忌部家系によれば、建葉槌命天日鷲命の子供と言うことになっています(百嶋系図ではそんなことは全く読み取れない(忌部氏の創作か?)し、まつろわぬ神の代名詞、カガセオ一つとっても、大甕倭文神社、泉神社、鹿島神宮香取神宮、澳津説神社、息栖神社、大生神社、大井神社などと、思い浮かべただけでも、これだけの神社が関係していることがわかります。

百嶋系図やCDを聞いている皆さんならこの神社名を目にしただけで、ピンとくるものがあるでしょう。長脛彦(岐神)、多氏、海幸彦、山幸彦。すぐにこんな名前が思い浮かぶと思います。
したがって、とりあえず単体の神社を調査して、分かったことや、その時々において思いついた関連性などを報告することとします。

もちろん常陸国の神社が全て関連しているわけでもないでしょうから、今後たくさんの神社を探検していくうちに、系統だてて整理できると思いますので、気長にお付き合いいただければと思います。

では、前回の続きに入ります。

静神社の本当の主祭神は誰なのか、でしたね。

ご由緒では、現在の主祭神建葉槌命、江戸時代には黄門様によって手力男命が主祭神になっ ていたようです。(相殿神は、左殿に高皇産靈命、右殿に思兼命を祀っていたといいます。

神紋は桜でしたね。そして千木は女千木。
 
相殿神からアプローチしていきましょう。まず、百嶋系図によれば左殿の高皇産靈命は高木大神ですね。右殿の思兼命は豊玉彦です。建葉槌命は今のところ百嶋系図やCDからは何もわかりません。江戸時代に黄門様によって主祭神とされた手力男命は、昨日聞いていたCDでわかりました。長野戸隠神社の解説で豊玉彦と言っておられました。(その後手力男命はスサノヲということがわかりましたので、訂正いたします。)

つまり、黄門様は思兼命と手力男命、豊玉彦とスサノヲをお祀りしていたのでした。

黄門様の大日本史はまだ読んでいませんが、ちょっと調べたところでは、記紀の記

述を踏襲しているようですので、ねつ造された歴史を鵜呑みにしている感が否めま

せん。唯一宗源吉田神道を信奉していたようです。本地垂迹を否定しているのと佐

竹氏(源氏)の守り神であるため、常陸国内の多くの八幡神社吉田神社に改名さ

せられています。徳川家は源氏ではなかったことの証左でしょうね。そうだとした

ら、征夷大将軍に成れる資格はなくなります。だから、別な方向から徳川家が征夷

大将軍に任命された正当性を主張するために大日本史を編纂したのかもしれませ
ん。地元の吉田八幡神社も改名させられた一つです。

茨城県教育委員会HPから引用

三浦杉
 吉田八幡神社の長い石段から続く境内は杉の大木におおわれ、その石段の両側にも杉が林立する。
 中でも特に目につく二本の杉の巨木があり、これが県指定の天然記念物の三浦杉である。
 樹齢は800年以上、幹周囲10メートル、樹高59メートル、枝下28メートルというこの杉は、久寿2年(1155年)相模国・三浦大介義明が、下野国那須野に金毛九尾の悪狐退治に行く途中、この神社に参拝し、「我宴護により能く悪狐を護ば此の杉天にそびゆべし」と植えた杉と伝えられる。
 はじめは鎌倉杉といわれたが、この話を聞いた徳川光圀が、「三浦」と命名した。

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九尾のキツネと言えば、地獄先生ぬーべーにも出てくる玉藻の君ですね。那須岳では三浦大介(横浜大洋ホエールズの浜の番長ではありません、笑)に退治され殺生石になっています。そしてこの神社の現在の神主は元民主党衆議院議員の高野某です。
曾祖父さんは桜田門外の変に参加し明治まで生き延びた海後 磋磯之介の兄です。那珂市米崎の三嶋神社が生家です。(出ました。河野家の氏神様!大山積)那珂市には意外と三嶋神社が多い。

領内の多くの神社では神紋が水戸葵紋に変更させられているし祭神も変更させられ

ています。(東海村の豊受皇大神宮大子町の近津神社上の宮、日立市の泉神社、

大甕倭文神社、澳津説神社、御岩神社など多数)

さて、本題です。ポイントはカガセオと蛇、そして女神であること、神社の配置と言う事でした。

現時点での結論は、ズバリ言いましょうね。それは、木花咲耶姫(前玉姫)です。

豊玉姫の線も考えているのですが現段階ではと言うことで、ご了承くださいませ。

理由は、桜の神紋と岩に化身したカガセオを銀の靴で蹴飛ばし散じりにしたこと。つまり岩を粉砕したからです。削岩機の裂(前)玉姫の本領発揮ですか。(笑)

といって、前玉姫が蹴飛ばしたわけではなく、実際にはやさしく、きびしく懐柔
したのだと思います。

想像(妄想かも)を膨らませれば、鹿島の神(海幸彦、藤原の先祖)でも香取の神でも征伐できなかったカガセオを、なぜ機織の神である武葉槌が征圧できたのか。

それはカガセオ(長髄彦)は九州時代から埼玉姫(豊玉姫かも)に憧れていたからでしょう。(笑)

最後はもう、身分の高い美人の女神様にご登場願うしか策はありませんね(笑)
後の時代の権力者、回りくどく書かなくてもいいですね。藤原氏が、カガセオ(岐神=長髄彦一派)を悪人として貶めるために(神武と喧嘩した事実はありますが)、こんな物語を作った可能性

は高いと推測します。

本殿両脇の相殿はまだよくわかりません。蛇から大己貴神を導き出せますが、もう片方は今のところ見当が付きません。漠然と岐神かなとはおもっていますが・・・。

今後ほかの神社(特に大甕倭文神社と泉神社)を探検してからさらに考察していきたいと思います。


おまけ

現在考えている当時のシナリオは、こんな感じです。

神武と喧嘩して、常陸国島流しになってしまった(あるいは蝦夷地から東国の防衛隊として左遷された)長髄彦は、下総の国から常陸の国に入国し常陸国をうまく管理していた。5000年程前から蝦夷地に渡来していた旧ヘブライ人の恵比須族たち(青森から岩手にかけての一戸から九戸を中心に居住、いまではキリストの墓がある事でも有名な地区)とも、今の福島県いわき市の勿来(なこそ、くるなかれ、くなと)を界にうまくすみ分けていた。ところが、常陸国から隣の下野国は金の産地。(八溝山系、茨城県大子町、栃木県那珂川町)増々力を付ける長髄彦を快く思わない海幸彦系(藤原の先祖)はついに討伐隊を結成。鹿島の神と香取の神を征東将軍として派遣した。しかし、カガセオ(長髄彦)の圧倒的な戦力により征伐をあきらめた海幸彦系は、九州王朝一の実力者豊玉彦に対策を願い出た。豊玉彦は得意の穏便な手法、要するに女神を提供することで仲良くするやり方、義兄弟になる方法(百嶋先生は穴兄弟と言っておられましたが)をとり、自分より18歳も若く、美しく(と思われる)、若すぎて持て余していた前玉姫を常陸国に遣わした。

時代考証してません)

2020年現在では、なんと前玉姫と長髄彦を双子の兄弟と分析しています。

4.静神社探険記

 

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実は、前回探検した「鷲子山上神社」もこの「静神社」も「旧那珂郡(さらに昔の平安時代延喜式では久慈郡式内社ですが)なのです。


那珂や那賀は、福岡や徳島、和歌山にも見られる地名です。九州王朝説から考えれば、東遷の行程が残されていると見るのが妥当でしょうね。(2020年現在では逆に東日本から西に地名移動したと考えていますが)鉱物を探しに全国津々浦々調査をしながら、その勢力範囲を広げ、移住していったのでしょう。


百嶋CDを聞いていると、「那珂川町」という地名が出てきて、この場合は「福岡県那珂川町」なのですが、「鷲子山上神社」は「旧茨城県那珂郡美和村旧(嶐郷村)鷲子」と栃木県那須郡那珂川町馬頭町)矢又」にまたがって鎮座しているのです。 矢又ですよ。ヤマタノオロチを連想させますね。(福岡県那珂川町は現在那珂川市になっており

九州大学工学部の教授真鍋大覚の終身地である。また真鍋の先祖は慶長年間に常陸国府中から九州に移動されている。当時の府中での同僚には漫画家の巨匠手塚治虫の先祖がいる)


 この馬頭町は栃木県(旧下野国)にも関わらず、徳川時代には水戸領に属していました。したがって鷲子山上神社は江戸時代は水戸徳川家のみの所領だったわけです。那珂川町旧(馬頭町)健部には、建部山神社(祭神は日本武尊と金山彦)が有り、日本最古の産金の里で遣唐使の資金に使われたとの石碑が立っています。「建部山神社」についての詳細は後日。


さて、「静神社」ですが、


主祭神は 「建葉槌命


相殿神は「手力男神」「高皇産霊尊」「思兼神」


神紋は丸に桜。

 

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主祭神の「建葉槌命」ですが、百嶋系図には記載がありません。CDにも今まで聞いた中には出てきていません。


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Wikipediaによれば、『古語拾遺 』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。


書記では、経津主神武甕槌命 では服従しなかった星神香香背男 (ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。
2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、日本書紀第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。


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さあ、香香背男がでてきましたね。まだ探検には行っていませんが、大甕倭文人神社の伝承によれば、岩に変身した香香背男を建葉槌命が銀の靴で蹴飛ばし、塵散りにしたとの事です。

 なんかこのあたりに、本当の主祭神を解き明かす鍵がありそうです。

 建葉槌命男神なのですが、ここも鷲子山上神社の本殿ように女千木でした。

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つまり、本当の主祭神(女神)を隠しているということです。

 織物の神が男というのは小学生が考えてもおかしな話です。境内に下のような「織姫像」が設置されているのをみたら尚更です。素直に考えれば、この「織姫」が主祭神だと思う事でしょう。

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 織姫といえば七夕です。七夕姫といえば、百嶋系図では「市杵島姫」ですね。

スサノウとアカル姫(大幡主とイザナミとの娘、豊玉彦の姉)の娘です。

 織物の神と言えばもう一人、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)がいますね。

相殿神高皇産霊神(高木神)の娘です。そして書記では、もう一人の相殿神思兼神の妹になっています。

百嶋系図では、思兼神は豊玉彦です。

 初期九州王朝の立役者は白族で倭の奴国王系統で白川伯王の子大幡主(神皇産霊神)であり、孫の豊玉彦ですから、どうも記紀を創作した張本人は、高皇産霊神系統を高く見せようとする傾向がありますね。と言うか、豊玉彦を低く見せようとする意図がありありですね。

 百嶋CDには豊玉彦は当時、多種多様な民族をまとめ上げるのに大変苦労した旨の事を述べておられます。

 土着民、5000年前に入ってきている古古ヘブライ人(神農系、恵比須系)、アレクサンダー大王の東方遠征で追われた2300年前のイスラエルユダヤ系、ペルシャ系アーリア系、匈奴系、いく度もの内乱で追われた中国系、韓半島系、東南アジア系、つまり、初期九州王朝はユーラシア大陸の多くの民族の吹き溜まりとなっていたわけです。

(要するに日本人と呼ばれるものの先祖は単一民族ではいと言うことです。世界中の国と同じ先祖を持つわけですね)

 これらをまとめるために強圧的ではなく融和政策を採っていたようです。

この穏やかなやり方が後に記紀を創作した者にとってはなじめないものがあったのでしょう。もうお分かりですね、記紀を創作した者とは、本来の天皇の系統をごまかし、自分の先祖をねつ造した藤原氏に他なりません。記紀によって、天皇ではない自分の先祖を天皇にしてしまったのです。大化の改新乙巳の変)で蘇我氏を滅ぼし、平成の現在

に至るまで日本の中枢に居座る藤原氏です。

 豊玉彦の政治手法は聖徳太子の「十七条の憲法」を想起させます。

 特に、一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせ

 よ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 

聖徳太子蘇我一族であり豊の一族でもあります。書紀では厩戸豊聡耳皇子で豊玉彦八意思兼命と意味が同じですし「豊」も使っています。父用明天皇は橘豊日天皇でありやはり「豊」を使っています。つまり、豊玉彦と何らかの深い関係にあるのではないかと予想しています。


九州王朝時の藤原氏の先祖である海幸彦(草部吉見・天児屋根命・建雷・その他多くの名を持つ)の身分は尉官クラスだったと百嶋先生は述べています。

九州王朝主な5系統の一つ高皇産霊神(高木大神)の娘栲幡千千姫命の婿養子になっ

てから、成り上がって行ったようです。これを隠ぺいし権力を手に入れることが、藤原鎌足不比等の大命題だったのです。

 

現在は、五摂家(近衛(このえ)家,鷹司(たかつかさ)家,九条家二条家一条家)と言う形で日本の中枢を牛耳っています。

 (煩悩くん フルスロットル

 

あ、そうそう。祭神は誰かと言う事でしたね。

次の奉納された蛇の絵も参考になるかもしれません。

ポイントは、カガセオと蛇。そして女神。

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そしてもう一つ、本殿と相殿の配置。

 

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見づらいですが、拝殿の奥に隠れている本殿(千木のついている建物)の両脇に、あたかも本殿に祀られている人に従うように並んで小ぶりな相殿が立っているのです。

これは、本殿の女神の二人の従者を表していると解釈できます。

これらを踏まえて、少し考察したいと思います。

3.鷲子山上神社探検記2

続きです。(唐突だね、笑)

鷲子山上神社の祭神についての考察を続けましょう。

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その前に、この地域の特徴を簡単に書きますと、

江戸時代は、皆さんご存知のように水戸徳川家の領地でした。水戸徳川家尾張紀州

と並んで御三家と呼ばれていたのは皆さんご存知だと思います。水戸家は参勤交代を免除されていたようです。大日本史を編纂した徳川光圀(黄門様)や、幕末尊皇攘夷

旗頭となった徳川斉昭が有名ですね。鉄砲の音で始まったといわれる、桜田門外の変

のその鉄砲(拳銃)の持ち主だったということですよ。ピストルの握り桜文様の化粧彫りが、斉昭の常用していたお椀の文様と同じだった。マル秘らしいですが。

その前は、佐竹氏です。徳川と同属の清和源氏ですが、関が原の戦いで態度を保留していたため、秋田(久保田)に移封されてしまいました。その時に当地区に住んでいた郷士も跡取り(主に長男)は随行しており、400年以上たった現在でも、親せき付き合いをしている家もあるとのことです。(すごいですね)

その前は大化の改新以降、親王が直轄する親王任国常陸介が権力を持っていたようです。

その中でも特筆すべき人は常陸守 で常陸国風土記 を編纂したといわれる藤原宇合

不比等の三男で藤原四家 の一つ式家の祖)

ざっと、こんな感じです。

さて、由緒書にもあるように、祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)ですから、本宮の千木は男千木で特に問題はなさそうです。

天日鷲命は百嶋系図によれば大幡主(神皇産霊神)の子天太玉(豊玉彦=八咫の烏)と高木神(高皇産霊神)の娘杉山大神(天豊ツ姫=アソツ姫)の子で八咫烏の子なので、と・り・の・こ」と言われているとのことです。さらに、百嶋系図を見てみると豊玉姫宗像三女神のタゴリヒメ、ウガ

ヤフキアエズ=アジスキタカヒコネの母)の異母の弟にあたることがわかります。

ン?じゃあ、豊玉姫だって「とりのこ」ではないか?弟が「とりのこ」だったら、姉だって「とりのこ」でしょう、普通。

だったら、女千木を持つ本殿の祭神は豊玉姫ではないか?

百嶋先生によれば、豊玉姫青竜大権現であり、青袖の舞=かんの舞=からむしの

舞を踊る。

踊る話は良く聞きこんでいないので、踊ることしか今はわかりません。

記紀では、海神とされ、サメとか鰐(海亀)とか龍とかナマズとか言われています。

このサメとか鰐とかナマズ常陸国に大きく関係してくるとひらめきました。今後の神社探

検記を乞うご期待!?


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天豊ツ姫は神武(太白太子)の息子大倭彦(オオヤマトヒコ、威徳)と結婚した後、建磐龍に略奪され、雨宮姫(のちの山咋神の妻)を産んだあと豊玉彦と結婚しています。

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ネットで豊玉姫を調べていたら興味深い神社がありました。

鹿児島県指宿市今和泉の豊玉媛神社です。地元では中宮大明神またはデメジンサーとよばれています。デメジンサー?新しい戦隊ものか?ご当地ヒーローか?と思ったらですよ(おっ九州弁ポイぞ)、大明神様がなまってデー(大)・メ(明・)ジン(神)・サー(様)だと言う事でした。(笑)

今和泉は天璋院篤姫(徳川13代将軍家定の正室)の出身地のようですね。ウィキによれば本名は源篤子、近衛家に養女になってからは、藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名をあらためたようです。

島津なのに源だって?島津の祖、忠久が源頼朝のこだったという伝承があるようですが・・・。

ここでは深く追求できません。

デメジンサーは百嶋先生の話に出てくる「タノカンサー」(田の神様)と同じ使い方ですね。

タノカンサー(大幡主と大山祇)と言えば、ありました、ありました。境内に石碑が立っていました。

大山祇ですから弟タノカンサーですね。

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田の神の石碑

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         大山祇神社の石碑

 

鷲子地区には神社以外にも田の神様の石碑が残っているようです。

<美和村史より引用>

ジシン様・田の神降し
2月10日  朝早く空臼を起して三回臼を空搗き(からつき)する。なお正月の門松等を焼く。ジシン様(田の神)はその煙に乗って降りてくるという。この日はぼた餅をつくったり、ばらの葉とか、木の葉に包んだバラ餅、花餅をつくり供えたりたべたりした。

ジシン様はたぶん地神様でしょうね。

 

 さて、2番目のポイントである神紋はどうかと言えば、本宮も本殿も五本骨日の丸扇です。

                   

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          神紋は五本骨日の丸扇

 

実はこれ佐竹氏の家紋でもあるのです。宮司が佐竹氏の子孫の長倉さんだからでしょうか?

でも扇の舞?の大山咋神のイメージでもあるのですね。

百嶋CDでは、スサノウの息子長脛彦が神武や天照(卑弥呼)に反逆して、結局は負けるがスサノウは許しを請うために出雲国で天叢雲の剣を造らせ、神童大山咋神を遣いにして天照に献上した。そして、無事戻ったとき?五本骨日の丸扇を使って踊ったのが扇褒めの神事です、

と言っていたような記憶があります。

(2020年4月21日追記:実はその後の研究の進展によって、大山咋の扱いが相当変わってきました。簡単に現在の考え方だけメモしておきます。

大山咋は大山queenで女神です。しかも酒の神ですから、此花開耶姫と考えています)

佐竹氏の場合は、「扇に月丸」で月と日の区別は定かではありませんが、見た目はおんなじですね。

武家の家紋の由来をさぐる」より引用

佐竹氏の家紋は「扇に月丸」である。しかし、家紋は黒白で表すため「月丸」はときに「日の丸」に誤られることが多いが、「五本骨扇に月丸」が正しいものである。
 佐竹氏の「扇に月丸」紋には、以下のような話が伝わっている。『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあり、このことから「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。
 佐竹氏は頼朝と同じ清和源氏であり、『別本佐竹系図』には、「家紋─隆義までは白旗なり。秀義のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と初めから紋として賜ったように記している。しかし、頼朝から賜ったのは扇そのもので、それを旗に付けたことから次第に家紋に変化していったものである。


最初にも書いたように、常陸国北部は鎌倉時代から江戸時代に入るまで400年間は佐竹氏が支配していたので、その影響は相当大きかったようです。

江戸時代にはもっと権力の強かった徳川家が支配したのですが、佐竹の家来が相当数居残ったので、その影響を消し去ることは、統治する上で、良い政略ではなかったのかもしれません。

そのために、「扇に月丸紋」を残さざるを得なかったと考えることができます。

この件に関しては、後々良く考察したいと思います。

以上、鷲子山上神社探検記をおわりにします。