常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

神社を探検し真実の歴史といかに生きるかを探究しています

3.鷲子山上神社探検記2

続きです。(唐突だね、笑)

鷲子山上神社の祭神についての考察を続けましょう。

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その前に、この地域の特徴を簡単に書きますと、

江戸時代は、皆さんご存知のように水戸徳川家の領地でした。水戸徳川家尾張紀州

と並んで御三家と呼ばれていたのは皆さんご存知だと思います。水戸家は参勤交代を免除されていたようです。大日本史を編纂した徳川光圀(黄門様)や、幕末尊皇攘夷

旗頭となった徳川斉昭が有名ですね。鉄砲の音で始まったといわれる、桜田門外の変

のその鉄砲(拳銃)の持ち主だったということですよ。ピストルの握り桜文様の化粧彫りが、斉昭の常用していたお椀の文様と同じだった。マル秘らしいですが。

その前は、佐竹氏です。徳川と同属の清和源氏ですが、関が原の戦いで態度を保留していたため、秋田(久保田)に移封されてしまいました。その時に当地区に住んでいた郷士も跡取り(主に長男)は随行しており、400年以上たった現在でも、親せき付き合いをしている家もあるとのことです。(すごいですね)

その前は大化の改新以降、親王が直轄する親王任国常陸介が権力を持っていたようです。

その中でも特筆すべき人は常陸守 で常陸国風土記 を編纂したといわれる藤原宇合

不比等の三男で藤原四家 の一つ式家の祖)

ざっと、こんな感じです。

さて、由緒書にもあるように、祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)ですから、本宮の千木は男千木で特に問題はなさそうです。

天日鷲命は百嶋系図によれば大幡主(神皇産霊神)の子天太玉(豊玉彦=八咫の烏)と高木神(高皇産霊神)の娘杉山大神(天豊ツ姫=アソツ姫)の子で八咫烏の子なので、と・り・の・こ」と言われているとのことです。さらに、百嶋系図を見てみると豊玉姫宗像三女神のタゴリヒメ、ウガ

ヤフキアエズ=アジスキタカヒコネの母)の異母の弟にあたることがわかります。

ン?じゃあ、豊玉姫だって「とりのこ」ではないか?弟が「とりのこ」だったら、姉だって「とりのこ」でしょう、普通。

だったら、女千木を持つ本殿の祭神は豊玉姫ではないか?

百嶋先生によれば、豊玉姫青竜大権現であり、青袖の舞=かんの舞=からむしの

舞を踊る。

踊る話は良く聞きこんでいないので、踊ることしか今はわかりません。

記紀では、海神とされ、サメとか鰐(海亀)とか龍とかナマズとか言われています。

このサメとか鰐とかナマズ常陸国に大きく関係してくるとひらめきました。今後の神社探

検記を乞うご期待!?


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天豊ツ姫は神武(太白太子)の息子大倭彦(オオヤマトヒコ、威徳)と結婚した後、建磐龍に略奪され、雨宮姫(のちの山咋神の妻)を産んだあと豊玉彦と結婚しています。

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ネットで豊玉姫を調べていたら興味深い神社がありました。

鹿児島県指宿市今和泉の豊玉媛神社です。地元では中宮大明神またはデメジンサーとよばれています。デメジンサー?新しい戦隊ものか?ご当地ヒーローか?と思ったらですよ(おっ九州弁ポイぞ)、大明神様がなまってデー(大)・メ(明・)ジン(神)・サー(様)だと言う事でした。(笑)

今和泉は天璋院篤姫(徳川13代将軍家定の正室)の出身地のようですね。ウィキによれば本名は源篤子、近衛家に養女になってからは、藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名をあらためたようです。

島津なのに源だって?島津の祖、忠久が源頼朝のこだったという伝承があるようですが・・・。

ここでは深く追求できません。

デメジンサーは百嶋先生の話に出てくる「タノカンサー」(田の神様)と同じ使い方ですね。

タノカンサー(大幡主と大山祇)と言えば、ありました、ありました。境内に石碑が立っていました。

大山祇ですから弟タノカンサーですね。

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田の神の石碑

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         大山祇神社の石碑

 

鷲子地区には神社以外にも田の神様の石碑が残っているようです。

<美和村史より引用>

ジシン様・田の神降し
2月10日  朝早く空臼を起して三回臼を空搗き(からつき)する。なお正月の門松等を焼く。ジシン様(田の神)はその煙に乗って降りてくるという。この日はぼた餅をつくったり、ばらの葉とか、木の葉に包んだバラ餅、花餅をつくり供えたりたべたりした。

ジシン様はたぶん地神様でしょうね。

 

 さて、2番目のポイントである神紋はどうかと言えば、本宮も本殿も五本骨日の丸扇です。

                   

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          神紋は五本骨日の丸扇

 

実はこれ佐竹氏の家紋でもあるのです。宮司が佐竹氏の子孫の長倉さんだからでしょうか?

でも扇の舞?の大山咋神のイメージでもあるのですね。

百嶋CDでは、スサノウの息子長脛彦が神武や天照(卑弥呼)に反逆して、結局は負けるがスサノウは許しを請うために出雲国で天叢雲の剣を造らせ、神童大山咋神を遣いにして天照に献上した。そして、無事戻ったとき?五本骨日の丸扇を使って踊ったのが扇褒めの神事です、

と言っていたような記憶があります。

(2020年4月21日追記:実はその後の研究の進展によって、大山咋の扱いが相当変わってきました。簡単に現在の考え方だけメモしておきます。

大山咋は大山queenで女神です。しかも酒の神ですから、此花開耶姫と考えています)

佐竹氏の場合は、「扇に月丸」で月と日の区別は定かではありませんが、見た目はおんなじですね。

武家の家紋の由来をさぐる」より引用

佐竹氏の家紋は「扇に月丸」である。しかし、家紋は黒白で表すため「月丸」はときに「日の丸」に誤られることが多いが、「五本骨扇に月丸」が正しいものである。
 佐竹氏の「扇に月丸」紋には、以下のような話が伝わっている。『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、「佐竹四郎、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。二品(源頼朝咎めしめ給ふ。御旗と等しくすべからざるの故也。よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる」とあり、このことから「佐竹系図」では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。
 佐竹氏は頼朝と同じ清和源氏であり、『別本佐竹系図』には、「家紋─隆義までは白旗なり。秀義のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と初めから紋として賜ったように記している。しかし、頼朝から賜ったのは扇そのもので、それを旗に付けたことから次第に家紋に変化していったものである。


最初にも書いたように、常陸国北部は鎌倉時代から江戸時代に入るまで400年間は佐竹氏が支配していたので、その影響は相当大きかったようです。

江戸時代にはもっと権力の強かった徳川家が支配したのですが、佐竹の家来が相当数居残ったので、その影響を消し去ることは、統治する上で、良い政略ではなかったのかもしれません。

そのために、「扇に月丸紋」を残さざるを得なかったと考えることができます。

この件に関しては、後々良く考察したいと思います。

以上、鷲子山上神社探検記をおわりにします。